昼間は常に閉じきっているカーテンを、一気に両側へ払い除けた。それ程厚くないガラスを通してざあざあと聞こえる雨の音。その雫が地面を打つ瞬間さえ見えない夜の漆黒。慢性的にわたしの中に停滞する様々な負の感情を引き出し成長させるには充分な環境が整っている。
強く窓を打つ雨はほんの一瞬形を成して、すぐに零れ落ちてゆく。

音を消した携帯のバイブレーターが、テーブルと触れ合って妙に大きな音を響かせる。規則正しいその音に、テーブルに背を向け不規則な雨に耳を傾けていたわたしはゆっくり振り返った。ほんの十秒足らずで音は止み、狭くも広くもない部屋にはまた雨の音だけが駐在する。
メールの相手なら判っている。つい先刻、届いたメールに返事を出したところだったので。このメールは十中八九それに対する返信だろう。普段、筆不精なひとなのに珍しい。それと言いはしないがきっと何かあったのだろう、案外に判りやすいひとだ。 窓際からテーブルの傍へ移り、立ったまま携帯に手を伸ばしてフリップを開いた。かち、と、独特の音がして未読メール有り、の文字に目を落とす。

(それなら良かった)

ほんの一言だけのメールには愛想も何もない。最初に彼から、変わりないか、なんて柄でもないメールが届いたので、万事上手く行ってるよ、と此方も全く似合わない言葉で送り返してやったのだ。良かった、だなんて見え透いた言葉で、あの人に心配されるのは御免被りたい。
メールに目を落とし、たった八文字を見詰めるわたしの背後からは雨音が容赦なく追い立てる。返事をすべきかせぬべきか。それが問題だ。
どうせ携帯電話なんて冷たい鉄の塊に過ぎず、並べた文字に複雑に構成された感情を挿入することなんて出来るはずない。簡略化してゆく遣り取りに覚えた言い知れぬ感覚さえ、いつのまにか、無意識のうちに短い文字の交換に慣れ始めたわたしはすぐに文章化を望んでしまう。気付かぬあいだに時代の持つ風土病のようなものに、わたしも確実に感染していたのだ。
そしてそれは、彼にも言えることらしい。

(あなたは変わりない?)

結局わたしの親指は様々な思考に打ち勝ってしまい携帯電話の文字盤の上をなめらかに滑っている。ほんの小さな液晶画面にちかちかと文字が踊る。わたし達はこのごく小さい機械を表面的には操っているようでいて、本当のところ上手く支配されているに違いなかった。充電が残り少なくなった時に感じる焦燥した危機感が、それを端的に示しているではないか。
メールを送信してしまった後、携帯電話を元あった位置に置き放し、わたしは透明なグラスに注いであった冷たい水を一口喉に流し込んで堅い椅子に腰を下ろした。

テーブルに両肘をついて手の中に顔を埋める。指輪の冷たい感覚が頬に当たった。彼と共に試験を受けた日はもうとうに昔のことのように感じられる。今では互いに別の雇い主の元で契約ハンターの身となって落ちついているが、仕事柄、常に大きな危険を伴うので彼の身を按じていない訳ではない。冷静に見えて存外無茶な性格を痛いほどよく知っていることもあって、時折、些細なことでも気を揉んでしまうわたしの元々の性質が顔を覗かせて言い知れぬ不安に駆られることがある。だからといって携帯電話のメールなんていうシステムに頼るのが不愉快なだけだ。

小さい溜息は雨音の奥に消え、じっと身を強張らせて降り注ぐ雨に耳を澄ます。それはまるで外界から遮断する壁のように、完全な孤独を感じさせて心地良い。恐らくわたしは自分で思うより自虐的なのだ。常に感じている中途半端な痛みより、大して強くない自分自身を極限まで追い遣ることで完璧な絶望を求めている。この存在の馬鹿馬鹿しさを他人に悟られる前に自分自身で認めてしまえ。

強い雨音の中で、再び携帯電話を震わせるバイブレーターがテーブルにぶつかる音がした。また彼から返事が着たのだろう。そういえば疑問の形の文を送ったっけ。あたしもつくづく頭が回らない。特に別の考えごとをしているときには。返信を求めた訳ではないのに何故疑問の文を送ってしまったのだ。
然し、おかしなことだ。十秒足らずで終わるように設定されているはずのバイブレーションは、わたしが放っておいてもずっと鳴り続けている。
椅子から立ち上がり携帯電話に手を伸ばす。わたしがそれを手に取っても未だバイブレーションは続いていて、フリップを開いて液晶画面を見たら先ほどまでメールの遣り取りをしていた人の名とその人の携帯番号が表示されていた。メールではない。電話だったのだ。
暫くはまるで金縛りにでもあっているようにじっと画面を見詰めていたが、それからゆっくりと通話ボタンに指を伸ばした。

ピ、

――もしもし

携帯を耳に当てると、機械的に歪曲された彼の声がダイレクトに響いた。それは九月のヨークシンでの苦い再会以来、初めて聴く懐かしい声。私も変わりないよ、と。それはわたしのメールに対する返事のつもりなのだろうか。
――どうしたの、急に
――急じゃない、さっきまで遣り取りしていたじゃないか
――電話なんて珍しいわ
わたしが言ったら、受話器の向こうで彼が短く息をつくのが聞こえた。いつもの自嘲するような薄笑いを浮かべたのだろうと容易に想像はつく。彼の声は少し疲れの色を含んでいたけれど、それでも独特のトーンを保ったままだった。


珍しい、か・・・/どうかした?/いや、ただ、/ただ?/無機質な文字の遣り取りでは、温度を忘れそうだった/なあんだ、そうだったの/どうした?/いいえ、ただ、/ただ?/わたしとあなたって、やっぱり似てる


機械によってどんなに歪められても彼の声は冷たい海に沈んだわたしの眼に映る唯一の光の筋だった。自らの手で身体を冷やして、それでも低温な刹那の輝きはこれ以上ないほどの力でわたしを掴んで放そうとしない。変わらぬ声に身を投じて眼を閉じたら、彼の細い金色の髪に手が届きそうに錯覚した。
感情を伴わない手短な文章の交換に、彼は少しも蝕まれてなんていなかった。きっとわたしは、何よりもそのことが嬉しかったのだ。


いま、雨が降ってるわ/ああ、此方もだ/雨が好き/変わっているな/雨女だから/関係あるのか?/あるわよ

忘れそうだった声を耳元に在るように勘違いさせるこの機械は、やはり鼻持ちならない。きっと少しでも警戒を緩めればわたしさえ乗っ取られてしまうだろう。でもそれは彼が温度を忘れる事にはならない。決して、この人から体温を奪ってはならないのだ。

ねえ、電話は雨の日だけにしましょう/何故?/そうしたら、もっと雨を好きになれるから/君らしい考え方だな


開け放したカーテンの向こう、漆黒の窓を打つ雫に目を細めた。
わたしという存在は、未だ全く負けた訳ではない。冷たい鉄の塊を押し当てた耳では決して感じ取れない温もりは、ちゃんとわたしの奥深くに存在している。