几帳面な彼と二人で過ごす部屋は、この人の影響でいつも殺伐としていて潔癖だ。白い壁には染みひとつないし、流し台に洗い物を溜めることもなければ、テーブルの上に物を放りっぱなしにすることさえない。ふたりの共通の趣味が読書であるために買った、狭い部屋に不似合いの大きな本棚の中には、神経質にアルファベット順で本が並んでいる。この部屋は完璧すぎて取り止めがない。居心地の良さを身体中で感じることはないけれど、それでも部屋の隅に置いたパキラは元気良く青々としているし、ここでの生活は気に入っている。

――ねえ、リモコンは何処に置いたっけ
大して見たいわけでもないのに、わたしは所在なげな空気を揺らしたくて小さく呟いた。ここ最近では、テレビなんてほとんど電源を入れたことがなくて、今更ちゃんとつくのかどうかも定かでない。わたしたちの生活に、放っておいても勝手に喋り続ける騒がしい機械はほぼ必要ないのだ。ニュースなら携帯電話やらインターネットやらこんな小さな端末で迅速に簡単に手に入る時代だし、テレビや新聞なんていうマスメディアなんて、見る見るうちに衰退していくに違いない。少し寂しい気もする。
――リモコンの奴、しばらく使ってないからって拗ねて逃げ出したかしら
まさかね、と付け足して小さく笑っても、彼からの返事はなかった。わたしの言葉は行きつく先も見当たらずに宙ぶらりんのまま消えてゆく。わたしが声をかけた当の本人はというと、窓から空が見渡せる側の椅子に腰掛けて(それは既に彼の指定席で、その向かい側にわたしが座るのが暗黙の了解のようになってしまっている)、いつものごとくハードカバーの小難しい本に視線を落としている。確か数時間前から彼はそうしていた。ページが捲れるときとか、体勢を変える時の着擦れとか、そういうの以外彼はひとつも音を立てない。
――誰かさん、また聞いてない
いつものことだ。
傍まで歩いて行って、わたしが後ろから頭を小突くと彼はようやく此方の世界に帰ってくる。本日も然り。
――ん、すまない、何だったんだ
――もういいよ、どうせ大したことじゃないし
わたしは踵を翻してキッチンへ向かった。紅茶を淹れるためだ。最近、わたしにとって紅茶は大切な精神安定剤である。白い湯気が立ち上る温かい紅茶に、たっぷりの砂糖とミルクを入れるのが良い。わたしの場合一種の依存症らしく、それはもう英国人よろしく一日何杯も紅茶を飲むのでしょっちゅう葉を買い足さなくてはならなくなる。たまに忘れていて途方に暮れることがあるのだが、昨日買ったばかりなので今日はその心配がない。
――何だ、怒るくらいなら用件を言え
――別に怒ってないよ、紅茶飲む?
ていうかそれって逆ギレだ。何故クラピカが機嫌悪そうにするのか。
――砂糖とミルクは入れないでくれ
――飲みたいなら、ちゃんと「飲む」って言いなさい
わたしは結局、食器棚からふたつの白いカップを取り出して大いなる違和感を感じながらふたり分の紅茶の準備をするのだ。わたしは彼に圧倒的に弱い。



芳しい香りと湯気の立ち上るカップをテーブルに運んだら、彼はありがとう、と呟いた。視線はまた本に落ちていたけれど、今度は大して深く別世界に行ってしまうこともなかったようで、わたしが暫く見詰めているとちらりと顔を上げた。
――どうした
――別に、何でも
彼の傍に立ったまま濃いミルクティーを喉に流し込んだ。温かい感じが胃の中に落ちていって、わたしの中に停滞する靄々した白い煙みたいなものがすうっと晴れ、なんだか覚醒したような気分になる。こういう感覚が好きで、わたしは紅茶依存症に陥っているのだが。
――構って欲しいなら、そう言えば良いじゃないか
彼は静かに笑って言った。
なあんだ、今日は機嫌が良いらしい。彼の方からそんなことを言ってくるのは珍しくて、だけど偶にそういう日があって、大体そんな時は彼の機嫌がいい時だと決まっている。
――言ったら構ってくれるの?
――約束は出来ない
――わたしと約束なんて、したことないくせに
また紅茶をひとくち含んだ。口内いっぱいに広がる甘さと、自分が紡いだあんまりにも少女趣味な言葉がおかしいのとで少し笑ったら彼もそれに倣った。
この人の笑い方はいつだって、絶望的に静かだ。それはきっと、彼の性格だったり境遇だったり、たくさんの要因が重なりあってそうなるのだと思う。
屈託なく無邪気に笑う子を知ってる。ゴンはいつでもきらきらしたものに溢れていて、わたしは彼に会うたびに良く晴れた日曜の朝を思い出した。不敵ににやりと笑ってみせる子を知ってる。キルアは独特の皮肉ったような笑顔で、だけど少年の幼さで忘れずに着色をする。包容力のある笑い方をする人を知ってる。レオリオは穏やかで優しくて、人情味溢れる親しみやすい笑顔をいつでも絶やさない。みんなの笑顔は大好きだったけれど、クラピカのそれはわたしのいびつなでこぼこにぴったりと重なるのだ。

彼は、カップをそうっと口に運んで喉を潤してから、ゆっくりとした仕草で立ちあがった。わたしの正面に立った彼の視線は頭ひとつ分上にあって、首全体で見上げるのは疲れるから視線だけで彼の目を追う。少し動いただけで揺れる細い髪は、カーテンを全開にした窓から注ぐ太陽の光のお陰で金色の鮮やかさが三割増だ。
ゆっくり彼の手がわたしの頬まで伸びてきて、わたしと同じ冷たい指がそっと触れて心地良かった。自分の持つ温度を忘れたような手は嫌いだけれど、この人の手の冷たさはわたしに紅茶と似たような効果をもたらす。只、決定的に違っているのは彼の手が連れてくる覚醒は少しも長くは続かないところ。それどころか、後になって余計深い霞みをかけてしまうくらいだ。そんな彼の手は、一通りわたしの頬を滑った後、後頭部で止まってわたしの顔を固定した。それから落ちてくるのは彼の唇だと知っていて、わたしはそっと瞳を閉じる。
ごく偶に、本当に稀に、彼はこんな風に自分から口付けをしてくることがあった。わたしは勿論それを拒むわけないし、受けとめる。わたしたちは一緒にこの部屋で暮らしているけれど、恋人同士なんて線引きをした記憶はないので付き合ってはいないと思う。それでも、時々こんな風にキスをした。それは少なからずわたしの胸を押し潰すだけの重圧を持っていたし小さなたゆたいを覚えさせはしたけれど、彼にとってみれば不器用に闇を手探っているだけに違いなかった。でもわたしは勿論、拒まないで、受けとめる。
唇が離れて、彼の匂いも遠ざかって、わたしは目を開いた。光を取り戻した視界に映る金色の髪とその隙間で揺れる赤紫のイヤリング。海の底みたいな色をした瞳と視線がぶつかったら、彼はまた静かに笑った。
――私は、
少し掠れた小さな声。
――私は、約束の仕方を忘れてしまったんだ
それから、すまない、と付け足した。また「すまない」。静かな笑顔と共に与えられた謝罪は優しすぎて、哀しさがわたしを襲う。これだからやさしさとは厄介だ。
――じゃあさ、
――ん?
――それを思い出したら、真っ先にわたしに知らせてよ
彼の目の前に、小指を付き立てて言った。もし今この小指に彼自身の小指を絡ませたら、それが約束の成立と達成が同時に訪れる瞬間になることを知っていて彼は首を振った。それは判らない、と。

それを思い出すときは明日かもしれないし明後日かもしれないし、もしかしたらもっとずっと後、何年も何年も時を重ねてからかもしれない。あるいは永遠にそんな日なんて来ないかも。それならば、その瞬間に傍にいないかもしれないわたしと、何故そんな約束ができると言うのか。たった一言の裏側に並んだ理由は火を見るよりも明らかで、わたしはそうだね、と呟くより他の選択肢を与えられてはいなかった。

小指を下ろして俯くわたしに彼は小さな声で呟いた。
――それでも、今、私とお前は枷もないのにここに居るんだ、不思議だな


そしてまた、絶望的に静かな笑みを浮かべるのだ。