まるで何かから逃げるみたいに、わたしたちはお気に入りの本を一冊ずつ持って列車に乗った。荷物なんてただそれだけで、行き先なんて決めてもいないしわからなかったけれど、何処へだって行ける気分だった。右手に、あなたの手の温度があったから。

これじゃあまるで逃避行だな
まるでじゃなくて、逃避行なのよ

肩を寄せ合って交わした笑顔は、今はまだ少しの痛みを伴う。ありがちにロミオとジュリエットみたいな悲恋物語を気取るのは好きじゃないけれど、わたしたちはきっと永遠に祝福なんてされないんだろうなあ、と、これはほぼ直感的に理解していた。でも、この人ひとりじゃあ重くて背負いきれない十字架を、わたしは一緒に背負ってあげられる。いつか遠い過去に砕け散ったわたしの破片を、この人は一緒に拾い集めてくれると言う。ならばそれだけでわたしには充分すぎるくらいだった。神に捨てられたわたしたちにだって、顔を見合わせて笑うことくらいできる。
列車は、一面に広がるライ麦畑の中、静寂を揺らすように走ってゆく。太陽の光を受けてきらきらと輝くライ麦は、クラピカの髪の色みたいに透き通っていて綺麗だった。遠くに見えるなだらかな丘や、風に揺らされて色を変える木の葉。列車から見える風景はひとつひとつが、窓枠を額縁にして切り取られた古い絵画みたいだ。上下開閉の窓をそっと開けると、爽やかな匂いの風がすうっとわたしの髪を梳いてくれる。右手は、あなたの指に絡めたまま。

ねえ、どんなところに住みたい?
そうだな、街の喧騒が届かない、静かな所がいい
うん、わたしも
出来れば少し高いところにある、小さな家がいいな
そうだね、見付かるかな
見付かるさ、きっと何処かにあるよ、世界は広いんだ

そんな希望に満ちた台詞なんて、少し前ならあなたの口から紡がれること自体想像できなかったのに、今じゃこんなにも簡単に言ってのけるんだから。決して心を縛り付けてる鎖が完全に消えたわけじゃないはずなのに、少し強くなったのかな。それに比べて、わたしは少しも進歩してない?でもね、あなたの温もりがここにあるという事実だけで、まるで怖いものなんて何もないような気がするんだよ。もし、こんな最強な感情があるって始めから知ってたら、わたしたちは二人とも、こんなにボロボロになる必要なかったかもしれない。

わたしはね、真っ白な壁の家に住みたい
何故?
うーん、大した理由はないんだけど、光が溜まる気がする
白か、少し苦手だな、私は
どうして?
太陽が反射して、眩しすぎるんだ
でも、クラピカ好みの部屋にしたら、陰気になるよ
何だそれは、偏見だな
もとい、的確です
なんだと、この

言葉とは裏腹に、クラピカの笑顔は優しかった。あなたがそんな風に笑えたんだってことを思い出したのはごく最近で、全てを遮る忌々しいコンタクトレンズ越しに冷たい目ばかり見ていた頃のことを思えば現在のそれは奇跡に近い。でもあなたにはやっぱりそういう笑顔が似合うと思う。耀い月のような金色の髪に、穏やかなその微笑みはよく映える。
列車はまだ果てしないくらいに続くライ麦畑の中をゆき、窓は相変わらず少し古いB級映画みたいな風景を映している。隣には何よりも大切だと思える存在があって、この列車のゆく先にはきっと、この人に照らされて輝く日々が続いているんじゃないかと思う。これは、きっと、わたしがずっと望んでいたもの。手が届かない場所にある気がして、手を伸ばそうとさえしなかった、木の上の甘い果実みたいな。そしてそれは今、間違いなく傍にある。間違いなく。この、妙に満ち足りたような眩しさのなかに。



ああ、なんか、今、急に判っちゃった
ん?何が?
わたしがずっと、それこそ、生まれた瞬間から感じてた、おかしな感覚の正体
どうしたんだ、突然
ずっとね、足りないって気がしてたの、何か、足りない
それで?
わたしに足りなかったものって、クラピカだわ

あなたは少し面喰ったような顔をしていた。視線を合わせたまま、あなたは何度かまばたきをして、でもそれからいきなりふっと笑った。

私も感じていたよ、それと似たような感覚
え?
お前は、やっと取り戻せた、私の一部みたいだと

長い前髪の下でほんの少し微笑みながら言ったあなたの言葉は、とてもくすぐったくてわたしには優しすぎる響きだった。ずっと握ったままの右手に力がこもって、そこから伝わってくる体温は信じられないくらいわたしの身体を温める。ねえやっぱり、わたしは神の祝福なんて受けなくても少しも構わないよ。大袈裟な十字架や牧師様の前で、むず痒い誓い合いなんてしなくたっていい。だからただ、この手を離さないでいようね。弱くて倒れそうなわたしたちが肩を寄せ合ったところで、何が出来るかなんて判らない。でもただ泣きたくなるくらいあなたが大切で、それ以上何もないと思えるんだ。いつかこの胸に停滞する痛みが完全になくなるときにも、二人で手を繋いでいるように。



列車はいつのまにかライ麦畑を抜けて、ぽつぽつと立つ煉瓦造りの民家の合間を走っていた。子供たちが笑いあいながら線路の脇を通りすぎて、長閑な風景を惹き立てる。ここを過ぎたら海が見えるよ、と、クラピカは言う。海が見えたらそこで一旦列車を下りて、しばらく二人で眺めていようね、と約束をして、その肩にそっと頬を寄せた。

疲れただろう、少し眠った方が良い
うん、そうする
良い夢を

きっとあなたの夢をみるよ。その言葉は言わずに心の隅にしまって、わたしはあなたの肩にもたれたままそっと目を閉じた。自分で思うより身体の方は疲れているのか、それとも列車のゆりかごと彼の体温があまりに心地良いからなのか、眠気は案外すぐ傍にあった。意識がゆっくりと沈んでゆくのを感じながら、繋いだ手にそっと力を込める。



ねえ、意味より大切なものなら、今、ここに在るよ。