生死にまつわる描写があります。苦手な方は御遠慮ください。

















それは、あなたのように静かで厳かな朝でした。

見えない細い糸をいっぱいに張り巡らしたような明澄として張り詰めた空気がそこら中に満ちていました。自然と背筋がぴんとするようです。わたしはもう暫く前から音の無い世界に閉じ込められていて、木の間を掻い潜るように飛んでいた鳥が真っ青な空高く羽ばたいて行く羽音さえも、わたしの耳には届いてこないのです。世界はいつから音を無くしたのでしょう。
見上げる空が果てしなく広がっているように、この冴え冴えとした空気もこの世界に充満し、いつかその透明さと冷たさで全てを飲み込んでしまうのではないかと思いました。そよぐ風が運んでくる木々の匂いさえも研ぎ澄まされて、わたしは何度も目を閉じてそれを一杯に吸い込みました。そうすることで、此処に存在するわたしという人間の滑稽さを忘失したかったのかもしれません。


細かく装飾された美しい木の棺に凭れかかって、ゴンは泣いていました。何度も何度も棺を拳で叩いて、顔を腕に埋めて、声を上げているらしかったのですが空気は音を伝えるのを止めてしまったので、彼が何と叫んでいるのか少しも判りませんでした。ゴンのすぐ傍に立ったキルアは、ゴンに何かをつぶやいているみたいでした。座り込むゴンの隣にしゃんと二本足で立った彼も俯いていて、どんな表情をしているのかは少しも見えません。それでもずっとゴンに何事か話しかけているその口元は、何かとても可笑しなことが起こっているかのように歪んでいました。少し離れたところではレオリオが、右手で顔を覆っています。彼の指の隙間からはいくつもいくつも、透明な雫がぽろぽろと雨垂れのように零れ落ちてゆくのが見えました。空はこんなにも美しく晴れ渡っているから、大地に雨を与える必要なんて少しもないのに。センリツはわたしの少し前に立っていて、その小さな背中を寂しそうに丸めていました。
レオリオとセンリツが、ずっと彼の腕に沢山の針を突き立てて、その苦しみを長引かせる努力をしていたのをわたしは知っていました。わたしにはどうしても不自然なことのように見えるそれを、彼等は必死で、いかにも当然すべきことのように行っていたのです。彼が静かに眠りゆこうとしているのはどんなに見ても明白だったのに、無理矢理叩き起こそうとするそれを見てわたしはぞっとしていました。どうにもならないことをどうにかしようとするのは、時に愚かで時に美しいと、彼がそう言ったのを何度も思い出しました。ならばあの行為は愚かだったのでしょうか。それとも、美しかったのでしょうか。

わたしの他に此処に居る四人は皆、全身を真っ黒な服で染めていました。柔らかい芝生や生い茂る木々の中じゃあ、その色はまるで邪悪に此方を睨みつける鴉みたいに不自然に映えています。わたしが纏った、それとは正反対の白い服は、そういえば、いつか彼がよく似合うと褒めてくれたものだったのだと思い出しました。でも、黒の不自然さが自然のように取り繕われた此処では、白の裾をはためかすわたしだけが滑稽に存在しているのです。
わたしはまるで、この空気の何処かに穴をあけて、別の世界からじっとそれを見詰めている傍観者のようでした。ゴンやレオリオのように枯れ果てるほど涙を零すわけでもなければ、口元を歪めるわけでも、背中を丸めるわけでもありません。只、此処に立っていて、それをじっと眺めているだけなのです。そしてそれが何だか酷く恐ろしいことのように感じました。わたしは何のために此処に居るのか、此処に存在する為の役割を、わたしは持たないように感じたのです。
空はそれでも、わたしを責めることなく広がっています。あなたが好きな、青と白の混ざった空です。あなたも何処かで、見ていますか。



いつのまにかゴンは立ち上がっていて、黒い服の袖口で顔をごしごしと拭っていました。ゴンが立つのを支えるようにしたキルアは俯いたまま、唇を強く噛んでいます。レオリオは鮮やかな緑の芝生の上横たえられた棺を真っ直ぐ見据えながら、奥歯を強く噛み締めているようです。わたしの前に立っていたセンリツは踵を翻してこちらへ歩いてきて、わたしと目があうといつもの調子で優しく微笑みました。いつもと違うのは、彼女の目がほんの少し充血しているみたいだったことくらいです。

――    。

センリツが何事か呟いたのですが、それもやっぱり耳には響きませんでした。わたしは彼女の唇がゆっくり動くのを、只、ぼんやりとして見詰めているだけです。揺れるのを止めてしまった空気は何も伝えないので、彼女にわたしの心音が聞こえているのかどうかも判りません。

彼女はゆっくりとわたしの隣まで歩いてきて、そっと、優しく、わたしの肩にぽんと手を置きました。その途端に、暖かなその手の温度はわたしの肩を通して全身に伝わり、身体中にゆるやかな熱が溢れるような感覚を覚えました。
すると、どうでしょう。
風が揺れる音がしました。鳥が飛び交う羽音がしました。まだ泣いているゴンの嗚咽混じりの声が聞こえました。どうして、どうして。彼は何度もそう言っていたのです。空気が音の振動を伝えるのを再開したのでした。そして突然、音が返ってきたのとほとんど同じ頃、忘れていた何かを思い出したように鼻の奥がつんとしました。目の奥の方でじわりと、熱を持った何かが込み上げてくるのを感じました。指の先や、身体の端が、上手く動かなくなりました。


ああ。
哀しかったのだ、わたしは。


頬を暖かい何かが伝ってゆくのを感じ、やっと、わたしはわたしの心の底にあった感情に気付きました。わたしは哀しかったのです。とても、とても。哀しくて仕方なかったのです。彼という存在が手の届くところから消えてしまったことが。もう、どんな質問をしてもその説明したがりの唇が何も答えてはくれないということが。どんなに強く握っても握り返してくれるその手の暖かさがなくなってしまったということが。わたしは、哀しくて哀しくて、どうしようもなかったのです。




ごめんなさい
ごめんなさい
ごめんなさい


わたしは何度も謝りました。上手く言葉にならない言葉で、何度も何度も繰り返し謝りました。あなたが、これまでその背に背負ってきた悲しみや怒りや恐怖、その他の負の感情を全てこの世界に捨てて、やっと綺麗なものだけを全て集めて翼に変え、飛びたつことを許されたというのに、それを素直に喜んでやれないことを、何度も謝りました。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。ほとんど、叫ぶようにして。
でもどうか、今のあなたが笑っていてくれますようにと、わたしはそれだけを痛切に願うのです。あなたが纏っていた黒く汚れたものはすべて都合良く忘れてしまって、また一から、あなたが本当に進むべきだった道を、これから歩いてゆけばよいのです。少し遠回りをしたねと笑って。その目に光だけを映して。そして前だけを向いて。
ああ、けれども、叶うことならせめて、時々でいいから、わたしのことを思い出してくれませんか。そう、ほんの時々で、構わないから。



わたしは濡れた頬のまま青く高い空を見上げました。あなたが好きな、青と白の混ざった空です。あなたはこの空の何処かに溶けていて、わたしはそれを只、見上げたまま立ち尽くしています。ねえ、あなたにも見えていますか。世界はこんなにも美しい。そしてあなたは他のどんな魂よりも美しく空に輝くことでしょう。だってあなたの微笑む顔は、あんなにも壮美で高雅だったのですから。


おやすみなさい、愛しき人。
どうか安らかに。





それは、あなたのように静かで厳かな朝でした。