――あなたの音、ロベルト・シューマンみたいだわ


私は独り言のように呟いて微笑んだ。ずっと俯いたままだった彼女は私の言葉にやっと顔を上げ、何度か目を瞬かせてから、思い出したように微かに笑う。
――シューマン?
――ええ
――嬉しいわ、シューマンは好きなの
彼女の奏でる音は、例えるならロベルト・シューマンの描いた曲のようだと私は思う。繊細で思慮深く、そして気難しく近寄り難い。湧き出す泉のような優しく厳かな音を奏でたかと思えばそれは一瞬にして幻のように消えてしまい、次の瞬間には既に捉えどころのない、空虚な音へと姿を変えている。彼女の心音はまるで、様々な矛盾した要素を全て混ぜこぜにしてしまったような、そんな違和感を感じさせた。

狭い部屋は何だかかび臭くて、真っ白かったはずの壁は日に焼けてオフホワイトになり、昔の住人の気配を残すように家具の跡を白く残している。清潔とは言えない場所だけれども、街の中心からは離れていて喧騒も届かないし、隠れ家にするには良い場所だと言えるだろう。小さな明り取りからは僅かな光が差し込むが、どんよりと鈍く曇った空から届くそれは酷く頼りないものだった。それで余計に、この部屋の空気は重さを増す。
彼女はここへ来てからずっと、壁に凭れて、アニタ・ブルックナーの小説を読んでいる。彼女の風景描写が好みなの、と、いつか言っていたのを思い出した。本に視線を落とした彼女の長い睫毛が揺れ、私はぼんやりとそれを見詰める。部屋の真ん中に敷いた布団の上、彼は苦しそうに顔を歪めてこそいたけれど、もう魘されてはいないようだった。ただ、心音は未だに正常とは言い難い。それに比べて彼女の音は、まるでクライスレリアーナの第四曲。




――やけに穏やかなのね
私の声に、彼女はまた少し顔を上げた。何処かいぶかしんでいるように、もしくは意図を掴めないとでもいうように彼女が眉を上げたので、私は微笑みを返す。
――あなたの音
補足すると、彼女はああ、と微かに呟いた。
――風のない日の水面みたい、覗き込んだら水鏡になりそうな
――彼のこと、心配してないみたいだってこと?
――そこまでは言わないわ
彼女は疲れたように頬だけで笑んで見せると、そっと本に枝折を挟んで脇に置いた。彼女が普段から平静であるのは知っている。けれども、目の前で彼が熱に浮かされ、あんなに魘されていたというのに、こんなにも静かで優しすぎる音を乱れなく奏でるものだから、私はなんだか少し恐ろしくなったのだ。彼女は言葉を整理するように一瞬目を閉じて、口を開く。
――自分でも、良く判らないんだけど
一つ一つの言葉を確認するように、ゆっくりと。
――わたしきっと、安心してるわ
良く通る彼女の声が何もない部屋に高く響く。私は彼女の話し方がとても好きだ。歌うような、旋律を持った言葉。流れるような口調。
――薄情かもしれないけれど、わたし、安心してるの
細くて長い指で、彼女はそっとクラピカの額にかかった髪を掻き分ける。それはまるで古い映画のワンシーンを見るように美しい仕草だったので、私は思わず見入ってしまった。磨き上げられた黒曜石のような彼女の瞳はまっすぐに彼を見詰め、その奥には深い悲しみが一瞬光ったような気がした。ただ心音だけは相変わらずシューマンの穏やかな旋律を奏でていたから、それはただ私の見間違いだったのかもしれないけれども。
――目覚めたらまた彼は走ってゆくし、わたしにはそれを止められない
淡々と紡がれる彼女の言葉に、私は相槌さえ打てずに瞳を伏せる。
――そうなるくらいなら、このまま眠っていてくれれば良い





ねえ、わたしって、やっぱりおかしいの?




そう言った瞬間の彼女の笑みは、彼が日常的に浮かべる自嘲的なそれとあまりにも似ていて、私は身を裂かれるような痛みを感じた。私にはどうすることもできないし、彼も彼女もそれを望んでいない。ただ、このまま誰もブレーキをかけることなく進んでゆけば、辿り着く先は間違いなく真っ暗に広がる闇の中なのだと、それだけは確実に判ってしまって背筋が凍りそうになる。

狭い部屋には、相変わらずとらえどころのない、脈絡もない彼女の心音が静かに聞こえていた。彼女の奏でる音は具体的なものが消え去った、なにかとてつもない孤独感や恐怖感、絶望のよう。秩序も順序も、全て失われた夢の世界のような曖昧さ。何だか判らない、だけどとても狂おしいもの。
余りに気味が悪くて耳を塞ぎたくなるようだったけれど、私にはきっと二人を放っておくことなんて出来ないだろう。自分がこんなにお節介だったなんて、今まで全く知らなかった。

神なんていう、居るか居ないか判らないものに願うなんて馬鹿げているかもしれない。けれどももし、本当にそういう類の何かが存在するとしたならば、どうか彼等に、微かな未来を。