わたしは、あなたの細くて綺麗な指が硝子の破片を拾い上げるのをただずっと見つめていた。少しでも身動きをしたら、わたしがなんとか保っているものが愚かにも崩れ去って、たくさんの感情が溢れそうだったから、わたしは唇をつよく噛み締めて、あなたの指だけを見つめていた。
あなたの仕草は、なんてきれいなんだろう。
けれどそう感じるたびにわたしは、自分の胸が押し潰されるような気分になる。あなたはこんなにも美しい。わたしが知っているもののなかで、今まで見てきたもののなかで、誰より何より。

グラスの割れた音が消えた広くて狭い部屋の中、レコードの針だけが相も変わらず淋しげなピアノ協奏曲を奏で続けている。いつもこんな風だったわたしたちの最後の晩餐に、これ以上似つかわしい曲はないだろう。空気は時計の針が進むにつれて重力を増し、重苦しくわたしに圧し掛かってきて、頭が鉛の塊みたいに重かった。わたしの足もとにしゃがみ込んだあなたはただ黙って、わたしがさっき落として割ったグラスの欠片を全て丁寧に拾い集めてしまうと、ゆっくりと顔を上げた。
――怪我はしていないか?
まるで海の底のように深くやさしいその青い眼がわたしを見つめるたび、この身体は麻酔にかかる。お願いだからそんな顔をしないでほしい。わたしを取り巻く重力が、また重さを増すから。
――大丈夫よ
かろうじて呟いた言葉はフォルテシモのピアノの音で掻き消され、あなたの耳に届いたかどうかはわからない。


時計の針が曲がってしまったみたいにおかしな時間。

割れたグラスの破片をどんなに拾ってみたって、こぼれたワインがカーペットに染みをつくることを止められはしないのに。どんなレコードで静寂を遠ざけたって、ほとんど言葉を交わせないわたしたちの距離を埋められるわけがないのに。わたしたちはいつだってこんな風に、すこし奇妙だった。
わたしたちには確かなものなんて何一つなかったし、恐れずに朝を迎えたことなど、一度だってあった試しがなかった。だけど寄せ合った肩の温もりを今でも鮮明に覚えているのはきっと、それしか縋るものがなかったからだ。分かり合えていた訳ではないけれど、頬をよせたその暖かさはあの日のわたしを救ってくれた。
だからこそ、背を向けなければならない。この冬が終わる前に。

世界の果てへゆくときは、どうかわたしにさようならをちょうだいね。
そう言ったのはわたしの方だった。





――破片を、触らなかったか?

あなたは呟いて、傷を確認するために膝の上でスカートの端を握っていたわたしの手を取った。あなたの手は相変わらず冷たい。わたしの手と同じで。
こわれものを触るような仕草で、わたしの手に傷がないかとすっかり見てしまった後、あなたは突然、ぎゅっと、つよくわたしの手を握りしめた。
つよく、つよく。
どくん、と、わたしの鼓動は正直に叫ぶ。
かち合った視線の先、あなたの眼はまっすぐにわたしを見つめていた。その青い眼の呪縛に囚われて、わたしはまた、身動きがとれなくなる。潰れそうになる胸を、あなたは容赦なく掻き立てる。




――ほんとうに、大丈夫だから

わたしはその手を振り払おうとするけれど、それは叶わなかった。
あなたは更につよくわたしの手を握りしめて、それと同じだけの圧力がわたしの全身に襲いかかる。胸の底から、あらゆる種類の負の感情が一気に込み上げてきて、醜いマーブル模様を描いて混ざり合った。泣きたいのかもしれない。叫びたいのかもしれない。それとも怒りたいのだろうか。とにかく、わたしに自分を見失わせるあなたが、ひどく憎らしかった。





――すまない
穏やかな声で謝るあなたの優しさが、怖くていとおしくて仕方なかった。






最後の晩餐には、ぴったりだと思ったけれど。
単調に流れる協奏曲は、わたしたちには切なすぎる。





わたしはただ強く唇を噛み締めた。
判っていた。
ほんとうはとっくの昔に、あなたを愛していた。
感情が液体になったみたいに溢れ出してくる涙を止めることはできなかったけれど、そんなことに構ってなどいられなかった。とにかくわたしは、じっと身を固めて、今はただあなたをうしなう痛みに耐えなければならない。




あなたを愛しつづける苦しさに比べれば、こんな痛みなど一瞬だと。