流れてくる涙はしょっぱくて、このようなときに不謹慎にもわたしは、ああ、人間はまちがいなく海から生まれたのだ。と確信した。どこまでも青く、どこまでも澄んだ海の底から、わたしたちは生まれたのだった。それを思い出すと、世界が流し続けている赤黒い血の色が恐ろしくて、震えがとまらなくなる。涙の味を知れば知るほど息が出来なくて、苦しかった。

わたしは何もしらない。
けれど、ただこの人を愛している。

だからそのひとの清潔なはずの衣服やその白い頬にべったりとついた血を、それは彼自身のものではなかったと知っても、どうしても憎まなければならなかったのだ。触れることはできないから、ただ声を殺して、ときどきこぼれる涙を拭った。悲しいから泣いたのではない。悔しいから泣いたのだ。
悲観と不幸と悲哀を善とする道徳は、彼のようなうつくしい人間さえをも愚かな戦士に変えてしまった。空の向こう側を見詰めるような虚ろなそのひとに、この乾いた唇が一体何を伝えられるというのだろう。繰り返した大きな渦のなかに飲み込まれてゆきそうなこのひとを、わたしのちいさな手で連れ戻せるとは、到底思えない。








――憎ければ殺してしまう、それが人間のすることなの




喉の奥からほとんどこぼれ落ちたというべきわたしの言葉は、わたしたち二人ぼっちしか居ないしんとした部屋で不気味なほど静かに響いた。声が消えてしまうと、表を走ってゆく車の音が、まるで現実から遮断された世界の中で聞いているように遠くで鳴り響いていた。彼の虚ろな瞳は相も変わらず中空をさまよっていて、かがやく金色の髪はすこしも揺れはしない。わたしの涙は、いつのまにか頬の上で乾いていた。






――憎いから殺す、それが人間というものだろう?





つめたい声色が、するどいナイフのように空気を切り裂いた。わたしの身体が凍りついたのは、彼の言葉がまったく、すべての本質を捉えていると感じられたからであった。そうして繰り返されてきたのだ。137億年の宇宙の歴史の中で、ほんのちっぽけな存在であったはずの人類は、憎しみという名の武器を勝手な理論で正当化することによって鋭利にし、それを振りかざして舞台の中心に踊り出た。そうして繰り返してゆくのだ。いつかその武器で、自分の腹を切ってしまうときまで。
わたしは恐れた。このひとが憎しみに埋もれ、身勝手な道徳でテロリストになってしまうことを。まったくお節介なことだと知っている。けれどもわたしは、愚かにもこのひとを愛してしまったのだ。


海の底と同じ色をしたうつくしいその瞳をわざと漆黒に染めて、人間ではないふりなどしないで。わたしたちは皆、海から生まれてきて、そしていつしか海にとけてゆくのだ。あなたのようにうつくしい海。
争いの歴史は繰り返す。しかし歴史はそれ自身が繰り返すのではない。人間の手によって繰り返されてゆく。あなたには決して、そうして新たな争いの歴史を形成する歯車のひとつにはなってほしくないというだけのこと。あなたの深い悲しみなど理解できないし、理解できるなんて傲慢な勘違いもしていないけれど、どうかこんなにもうつくしい海を、悲しい血の色で染めてしまうのはやめて。






金色の髪のあいだから、透明な雫がひとつ、落ちるのを見た。それが何だったのか、確かなことなど何一つわからない。けれども、それが彼の瞳から落ちた海の雫だとしたならば、飲み込まれそうな渦の中からでもまだ引き返す余地はあると思った。人間は誰かを憎み、そして愛する生き物であり、また、迷う生き物なのだ。
彼もまた、迷っている。
その迷路の行きつく先に広がるのが、どうか青い海であるように。
わたしたちの生まれた場所。
そして、わたしたちが溶けゆく場所。

わたしは祈った。この乾いた唇で。何度も、何度も。