音もなく心が浸食されていくのを感じた。






彼女の涙はうつくしくて、
透明な雫が私の手の甲に落ちた瞬間、
身の毛がよだつほど血塗られたこの手を、身体を、
その雫が浄化してゆくような感覚を覚えた。
俯いた顔は長い髪に隠れて見えない。
もしも震えるその肩に触れたなら、
彼女を壊してしまいそうで恐ろしかった。
まるで花が散るように、
彼女が消えてしまいそうで怖かった。





彼の鎖が厭わしくて厭わしくて、
今すぐ千切ってしまいたいと思った。
こんなにもうつくしいその手を、その心を、
縛り付けるそれを、
消し去ってしまいたいと何度も願った。
零れ落ちてくる涙は止まらなかった。
もし今顔を上げて彼を見つめたら、
その瞳はわたしではなく、
きっとどこか遠くを見ているから、
それが怖くて俯いたままでいた。





つめたい静寂のなかに、彼女の嗚咽だけが何度も聞こえた。
まるで彼女は、
どんなに傍に存在しても決して触れることはできない
せつない幻のようだと思った。
きっと彼女はここに居てはならない。
穢れたこの手は、うつくしい肌を傷つけ切り裂いてしまうだけだから。
彼女のことを想ってはならない。
逆らえぬ運命は、暗い海に彼女を連れ去ってしまうだけだから。





うまく息が出来なくて、わたしは何度も声を漏らした。
彼の指先がわたしの頬に触れることはなかった。
わたしの涙をぬぐうことはなかった。
その途切れそうな心を解き放ちたくてどんなに祈っても、
何度祈っても、
この願いが天に届くことはなくて、
いつも闇のような空の中に飲み込まれて消えた。
彼を愛してはならない。
それは彼を苦しめるだけだから。





黒曜石のような彼女の瞳が、もう見えない。


海の底のような彼の瞳は、奪われるの?








夜はとうに明けたというのに、まるで悪い夢でも見ているかのような気分だった。
なぜこんな風にしか出逢うことが出来なかったのだろう。それがさだめだとしたら、なんて哀しい運命だろう。

心が侵食されてゆくなかで、ただ祈った。
叶うのならば、どうか、いとしきこのひとを護り給え。