ふわりと香る土の匂いに私はゆっくりと瞳を閉じた。草花の芽吹く気配。知らぬ間に春はすぐそこまで来ている。私たちが住む家の脇を流れる川に沿って続くあぜ道には、いつのまにか福寿草が顔を出していた。私はふいに、自分の口許がわずかに緩んでいるのに気がついた。こんなに穏やか感情を、私はつい最近まで忘れていた。いいや、忘れようとしていた。

空の端はすこしずつ青く染まりゆき、雲はまぶしい光を称え始めていた。どうやら日の出が近いらしい。太陽の気配のなか、私はゆっくりと川沿いの道を歩いた。私がこのところよくこうしてふらりと散歩に出かけるのは、朝が夜を凌駕してゆくのを身体で感じたかったからだ。静かに、けれども確かに、朝の輝きが夜を飲み込んでゆく。全ての穢れを照らすように太陽がやってきて、世界をまぶしく染めてゆく。それは油断すれば涙がこぼれるほどに神々しく、私はその中でひとり、その聖なる光が私の中の穢れさえ映してくれるのを目を閉じて感じるのだ。決して浄化されたいわけではない。私がこの背に負ったものを忘れないために、自分に架したちいさな罰のようなものだ。
ゆっくりと、ほんとうにゆっくりと、太陽が川の向こうの地平線から顔を出した。世界を染める金色の輝き。すうっと深呼吸をして、私は目を閉じた。何千年何万年と変わらぬ営み。なんと尊いことか。こうして暗く冷たい夜は、まばゆい朝に飲み込まれてゆく。私は静かに祈りを捧げた。私が奪われたものに。私が奪ったものに。そして、世界を照らすこの太陽と、太陽のように私を照らす愛しきひとに。祈りのあと、ゆっくりと目を開くと、いつのまにか夜はそこから居なくなっていた。まるでこの世界にはこれまで一度も夜なんてなかったかのように、ふりそそぐ金色の光の中で、木々の緑は青々として、草原は朝露にきらめいている。聞こえるのは目を覚ました鳥の声と、流れ続ける川のせせらぎだけだった。私の胸の中を穏やかなものが満たしてゆく。それを感じながらまたゆっくりと歩き出した。ここは、生命の息吹で満ちている。草の息遣いさえ聞こえるみたいだ。まるで、いつか失った幼い頃の景色のように。その記憶は、決して消すことの出来ない悲しみであったけれど、どんなに深く長い夜にさえも朝は訪れるのだ。絶対的な輝きで、冷ややかな風景をこんなにもうつくしいものへと劇的に変えてしまう。まるで魔法のように。

太陽に向かい歩いてゆくと、家の傍の井戸で彼女が壷に水を汲んでいるのが見えた。彼女は私の姿に気付くと、太陽のようにまばゆく微笑んでこちらに手を振った。私は自然と目を細め、その微笑に見惚れていた。金色の輝きの中、今日のように麗らかな朝を思わせるみずみずしい笑みで手を振る愛しいひと。永遠に終わりなど来ないと思っていた私の夜に朝をもたらしたひと。

――おはよう、クラピカ
――おはよう
――朝食にしましょう、姫イチゴのジャムがあるの

彼女はうたうようにそう言って、私を家の中へいざなう。穏やかで静かな幸福が身体中を満たしてゆくのがわかる。私は知らぬ間に彼女と同じ微笑みを称えていた。そうして光の中に解けてゆく。見上げれば、澄んだまぶしい光が、いつのまにか空をすべて埋めてしまっていた。