住み慣れた、というのに相応しいこの部屋は普段とは打って変わってしんとしていて、わたしは自分のベッドの脇で声を殺して泣いた。いつハーマイオニーがお風呂から上がって戻ってくるかもしれなかったけれど、涙は容赦なく次から次へと溢れてくる。真紅でまとめられた見慣れた部屋の内装がなんだか他人事のように、わたしを傍観してるみたいに感じた。噛み締めた唇が痛むのは、少しも気にならない。 七年間という時間は、簡単に思い出にするには長すぎて、抱きしめて眠るには短すぎる。


彼はずっと、マグルを嫌っていた。だからわたしやハーマイオニーなんかは、食事や授業で顔を合わすたびに罵られたり陰湿な嫌がらせをされたり、ほとほと迷惑していたものだ。その上、グリフィンドールとスリザリンは年季の入ったライバル同士ときた。だけど、何が切っ掛けだったか、ある時からわたしと彼はいつも一緒に居るようになった。始めはわたしも彼のことを嫌っていたし、彼もわたしのことを確かに嫌っていた筈なのに、いつのまにか気がつけば傍に居た、という感じ。そしてそれからずっと、わたしたちは形容するには難しすぎる関係のまま、この学校での生活を共にしてきた。

今から思えば、二人で過ごした時間とは何と尊かったのだろう。わたしたちはお互い違う寮に属していたから、夕食が終わればすぐに別れて寮に戻らなければならなかった。でも、その後、消灯時間を過ぎてから上手くフィルチや他の先生の目を盗み、内緒のメモであらかじめ決めた教室までルーモスの明かりだけを頼りに走るときには、これ以上ないほど胸がどきどき鳴った。教室のドアを出来るだけ静かに開いて、そっと中を覗き込んだ時、先に来ていた彼がにやりと笑って見せるときの顔が好きだった。
――君は鈍臭いからなあ、いつもヒヤヒヤしているんだ、君が到着するまで
意地悪そうに笑いながら、その表情とは裏腹に優しい手つきで彼がわたしの髪を撫でるたびに、自分が世界で一番幸せな人間だとあまりにも勝手な錯覚をした。わたしが抱いた感情は確かに恋だったし、わたしたちはとても、恋人同士と呼ばれる関係に似ていた。けれどもきっと、本物のそれではなかったはずだ。わたしはマグルで彼は由緒正しき魔法族。この学校を去るときが、わたしたち二人が傍に居られなくなる日だと判っていた。つまり、ずっと、刻まれてゆく別れの日へのカウントダウンの中でわたしたちは笑顔を交わしてきたのだ。いつでも、幸せだと感じるたびに、都合良くそのことを忘れたふりをして。

彼はいつでもからかうような口調でマグルを悪く言ったけれど(昔のそれと比べるとだいぶ棘は抜け落ちていた)、そんな中でもひとつだけ、彼がマグルのわたしを褒めたことがあった。授業のない日の午後、昼食の席で拝借してきたグレープフルーツを、いつものように忍び込んだ無人の教室で二人で食べようとした時。素晴らしい天気の日で、ほとんど生徒は中庭に出ていたから、城の中は休日にも関わらず案外しんとしていた。教室の窓から入る光の暖かさの中にふたり並んで腰掛けて、半分に割っただけのグレープフルーツをわたしがスプーン一本だけで綺麗に食べて見せると、彼は目を丸くしてわたしを褒めた。
――きっと、君に誇れることがあるとしたらそのスプーンさばきだね
と、あんまり真面目そうに言うのでわたしが笑おうとしたら、彼はすかさず付け加えた。
――良かったじゃないか、君にもひとつくらい取り柄があって
少しかちんとしながら、そういうなら、ドラコに誇れるものは子供っぽい屁理屈や嫌味を言わせたら右に出る者がいないってことね、と言ってやったら、いつものように白い頬を赤くさせて怒った。そういう子供っぽさが、わたしは凄く好きだった。
わたしたちは、この長くて短い時間の間にたくさんのことをした。本当は絶対秘密のはずの合言葉を内緒で教え合って、お互いの寮に侵入したこともあった。彼のスリザリンのマフラーを借りて必死で顔を隠しながら忍び込んだ寮の中で、知らない上級生に挨拶をされて焦るわたしを見たときのドラコの面白そうな顔。魔法薬の授業で、いつもいつもグリフィンドールを苛めるスネイプに腹を立てて愚痴を行った時の少し憤慨したような顔。溜息混じりにクラッブとゴイルの話をするときの呆れたような顔。そして、取り留めのない会話が止まった少しの沈黙の後、静かにわたしの名前を呼ぶときの残酷なくらい優しい顔。
全て、恐ろしいくらい鮮明に覚えている。覚えているという言葉はむしろ適切ではない。焼きついている。



わたしの中から涙と共に零れ落ちてくるものは、どれもこれも過去形だった。
確かにわたしは、この学校を卒業するときにはわたしと彼が全く違う道を歩いてゆくであろうことを知っていた。だけど頭で理解していることと受け入れることが違うらしいと気付いたのはついこの間。
わたしは彼を失うことを恐れている。
こんなにも。
涙が止まらないほどに。

明日になれば、わたしたちはこの学校を去ってゆく。きちんと荷物を詰めてまとめられた憎らしいトランク。明日、家路の列車を下りた瞬間から、みんなそれぞれの道を歩いていくんだ。希望に満ちた顔をして。

わたしは泣いた。いつハーマイオニーが戻ってくるか判らなかったけれど、もうそんなことはどうでも良かった。涙は勝手に、次々とあふれてくる。それを止めるすべを知らないから、わたしは真紅のベッドカバーに頬っぺたをくっつけて、ただ静かに泣いていた。別にドラコの為に泣くんじゃない。わたしはわたしの為に泣くんだ。こうすることで、きらきら輝きすぎたここでの日々を早く思い出という名の化石のひとつに変えて眠らせてしまわなきゃならない。
それでもきっと、これから先、グレープフルーツをスプーン一本で食べる時には、わたしは決まって彼のことを思い出すんだろう。そしてその度に、わたしはきっと少し涙を流す。遠い青春の日々のことを思い出して。

わたしは泣いた。慣れきったベッドカバーの柔らかい感触に顔を埋めながら。
ただ、愛しい日々を色あせぬまま過去に閉じ込めるために。