春眠暁を覚えず、とはよく言ったものだが、それにしても今日はなんとも暖かくて穏やかな気持ちになることだ。先日までずっと頼りっきりであった火鉢も、今ではあまり使われず部屋の隅に置かれたきりになっている。
僕は暖かい布団に包まったまま、ぼうっとした頭で耳を澄ませた。
まだうぐいすの声こそしないが、しかし障子の向こうからでも伝わってくる今日のこの暖かさ。もう春がそこまで来ているのだなあ。季節の巡るのはなんとも早いことだ。

しかし頭がぼうっとしているのは、実は春の陽気のお陰ではなく今朝からの熱のせいである。季節の変わり目とはつまり、風邪のひきやすい季節でもあるのだ。
彼女は僕のおでこに手を当て、熱があるのを知ると急いで町へ薬を買いに出掛けてくれた。そんなに焦ることはないと言ったのに、それにしてもああやって心配してくれるのはやっぱり嬉しいものだ。そして、僕はといえば彼女が出掛けてからずっと、完全には覚醒しない意識のまま呑気に春めいてきた陽気を感じていたというわけだ。先ほど、飼い猫の琥珀がにゃあと鳴きながら布団の中に潜り込んで、僕の足元に擦り寄ってきた。柔らかい毛が足に触れて心地良い。彼はとてもさびしがりやで、まるで人懐こい犬みたいに僕らになついてくれている。猫とはもっときまぐれで勝手なものではなかっただろうか。まったく、可愛らしいことこの上ない。



かたん、と、静寂にぽつんと響いた音に、琥珀は素早く反応して、するりと布団から出ると玄関のほうへ駆け出して行った。戸が開いた音だろう。彼女が帰ってきたのだ。ただいま、琥珀。明るい声が廊下の向こうから聞こえてくる。それから、彼女の足音がこちらへ近づいて来たと思うと、ゆっくりふすまが開かれた。
――宗次郎
彼女の声は何故だか少し弾んでいる気がした。僕は横たえていた身体を起こして、彼女に微笑んで見せる。
――おかえり
――ただいま
そう言いながら彼女も鮮やかな、春のような微笑みを浮かべる。と、彼女が薬の入った包みを持った手と逆側の手を、背中の後ろに回しているのが判った。恐らくその手に何かを持っているんだろうが、その嬉しそうな表情からして、何か彼女の喜びそうなものだろうと察した。町で何か良いものを見つけたのだろうか。彼女の嬉しそうな顔を見て、なんだか僕までわくわくするみたいだ。
――後ろの手、何を持っているんですか?
僕が問うと、待ってましたとばかりにその手に持ったものを身体の前へ出して見せた。立派な切り枝についた、それはそれはたくさんの梅の花やつぼみ。薄い紅色のその花は、春めいてきたこの陽気で染めてしまったような、そんな色をしていた。
――おばあさんが、庭の梅が花を咲かせたから貰って行って、って
おばあさん、とは恐らく、山のふもとに住んでいる老夫婦のおばあさんのことだ。ここから一番近所がその老夫婦の家で、町に行く時に通る道にあるものだからよく挨拶を交わすのだ。そういえばその家の庭には、立派な梅の木が生えていた。
――春をお裾分けしたくて、だって
彼女は嬉しそうに薄紅梅色の花びらを撫でた。春のお裾分けとは、なんとも彼女の喜びそうな粋な言葉である。
――素敵でしょ?
――そうですね
――春が来たんだもの、きっと宗次郎の風邪もすぐ治るよ
自信たっぷりにそう言うと、彼女は、すぐ薬の準備をするね、と、薬の包みと梅の花を持ったまま台所の方へ向かって行った。彼女が台所の戸の向こうへ消えた後でも、まだ梅の香りとやわらかな薄紅梅の色が部屋中に満ちているみたいな気がする。きっと彼女は薄紅梅のその花を、気に入りの花瓶にさして床の間に飾るだろう。長い冬が過ぎて我が家にも、遂に春が来たというわけだ。

僕は、風邪のせいでいつもより少し重い気がする身体をまた横たえて、彼女が薬を持ってきてくれるのを待った。
目を閉じて耳を澄ませると、琥珀に何やら話しかけている彼女の声に混じって、薄紅梅色の春の足音が聞こえてくる気がした。