オレンジ

携帯のフリップがぱかっと鳴る。このちいさな機械のせいで、いつからか腕時計は必要なくなった。待ち受けに並ぶ数字は、約束の時間を少し過ぎたところ。珍しいな、遅刻なんて。でも、彼のことだから、きっと仕事で遅れてるに違いない、と確信を持つ。でなきゃ、あの人の性格上、ぜったいにメールを一通よこすもの。また、同じようなぱかっという音を立てながら携帯を閉じて、わたしは、手持ち無沙汰に汗をかき始めたグラスに手を伸ばした。彼のネームプレートがかかった焼酎には手をつけず、わたしは相変わらず、甘いお酒ばかりを好んで飲んでいる。子供だなあ。と、彼はいつも、子供みたいな笑顔でいう。ただでさえ疲れの出やすい表情と、それを悪化させるようなひどいスケジュールにもかかわらず、その笑顔はまぶしいオレンジ色を連想させる。そんなことを考えていたら、まだからっぽのままの隣の席にふと彼の笑顔が見えた気がして、わたしの胸はきゅんとなった。ああ、彼が好きだ。そうしてわたしは、つくづくそう思う。そして、小走りでやってきて、申し訳なそうにごめんごめんと何度も謝りながら、それでもオレンジ色に微笑むだろう彼のことを思って、わたしまた、ひどく幸福な味のする甘ったるいお酒をひとくち飲んだ。



煙草

ふわあ、っと、白くて苦い煙が上がる瞬間が好きで、わたしは彼が煙草を吸うのをいつも眺めている。煙草に火をつけるときの手とか、ため息をつくように煙を吐く唇とか、だいすきなところはたくさんたくさんあるけれど、やっぱり、煙がのぼってゆく瞬間は、わたしにとって、どうしても特別だ。彼がそこにいるんだ、と、それを全身で実感できる気がするからかもしれない。理由はどうあれ、あの、切ないためいきみたいな煙を、わたしは、彼と同じくらい愛している。いつも、太陽みたいにお茶目にわらってみせるのに、どうしてか、煙草の煙を吐き出す瞬間だけは、彼がとても切なく見えるのだ。そのほんの一瞬を見逃したくないから、わたしは、彼が煙草を吸うのをいつも眺めている。長風呂の彼がリビングに戻ってくるまでのあいだ、テーブルの上に無造作に置かれたマルボロに手を伸ばした。一本取り出してくわえてみると、それはどこかひんやりとつめたく、彼のにおいがした。使い古されたライターで、彼と同じように火をつけてみる。いつも眺めているしぐさなのに、どうしてわたしだと、こんなにもぎこちないのだろう。火のついた煙草を、意を決して大きく吸い込んだら、予想通り、思い切り咽せた。げほげほ。止まらない咳と、涙目のなかで顔を上げたら、ドアを開けた彼が無邪気に笑っていた。



いたずら

まるで要塞か何かみたいだ。わたしはいつも、そう思う。どう使うか検討もつかない機械から出ているいろんなコードと、崩れそうなくらい山積みのCD。壁際のシェルフも、ぜんぶCDで埋め尽くされている。ほんとうに全部聴いたんだろうか、と疑ってみたくなるくらいの量。もしこの部屋でピアスでもなくそうものなら、あきらめるしかないに違いない。掴みきれない彼の、掴みきれない部屋。不思議な空間。ベッドもソファもないから、腰掛けることも出来やしない。ふつうの人が必要とするものはあまり必要としないくせに、必要なもの以外部屋に置かない彼だから、この意味のわからない機械たちが彼には何より必要なのだということか。なんだかもう、意味がわからない。わたしは、目の前に無造作に置かれているCDを一枚手に取った。見たこともないアーティスト名と、なんだか気味が悪くなるようなジャケット。洋楽にはちょっと詳しいと思っていたけれど、彼にはかなうはずがない。いくつかCDを見ているうち、ふと悪戯心に火がついてしまい、CDのケースと中身をばらばらに入れ替えてやることにした。それを見つけたとき、彼はいったいどんな顔をするだろうか。怒るかな。いいや、きっと違う。黙ったまま、無表情で黙々と元通りにする彼の姿が容易に思い浮かんで、わたしは笑いをかみしめた。



縁側

ふわあ。あくびをしたら、じわっと涙がにじんだ。風鈴の音と蝉の歌。子供たちが駆けてゆく足音と笑い声。もしここに西瓜があればもっと素敵なのに。と思った。大き目の桶に氷水を張って、緑と黒のコントラストが美しいそれを浸して冷やす。庭先においておけば、見た目にも涼しいに違いない。まるで古きよき時代にタイムスリップしたような、時代錯誤な世界。日本の夏ってすばらしい。都会のアスファルトの中じゃ、決して味わえやしない。縁側から見る景色は、まるで、完璧なひとつの絵みたいだった。こんなうつくしい世界を、彼に見せてあげられればいいのに。ふと、あの優しい瞳の色が頭をよぎった。どんな心配事や悩みも気に病むことなく、ぼんやりと並んで座って、黙って西瓜を食べる。そのあと、日が沈んだときのための線香花火があれば、もっともっと素敵だ。派手に飛び散る花火よりも、きっとあのひとは、そっちを好むに違いない。そしてあの、最強の微笑みで、この静かな世界を輝かせるのだ。今度ここへ来るときには、絶対に、西瓜と彼と線香花火。眼を閉じたら、穏やかに微笑む彼がまぶたの裏側にうつった。