屋上の扉はほとんど錆びついてて、押したら蝶番がぎいぎい鳴った。高いところだから少し風があって、頬をくすぐるそれはちょうど今の気候には心地良く、俺は少し目を閉じる。ああ、忘れてた、そんなことをしにきたんじゃない。手にしたレモンティーの缶はつめたくて持ってるだけで俺の指先から体温を奪っていくみたいだ。ぐるぐる見渡したら、ちょっと高くなった給水塔の上に腰掛けたあんたは、昨日から読んでた綺麗な薄緑色の表紙の本に目を落としていた。


――やっぱここに居たんだ
呟きながら下から見上げたら、あんたは少し目を丸くして俺を見詰める。それから、お得意の棘のない笑顔でやんわりと笑った。
――天気が良いからね
日向ぼっこがてら、と付け加えながら。俺は彼女の座ってる給水塔によじ登って、隣り合うように腰を下ろした。黒くて長い髪が、風に煽られてさやさやと揺れている。シャンプーの甘ったるくていい匂いがした。
――ならどっか出かけようぜ、大体やってることが不健康なんだよなー、せっかく良い天気だっつってんのに、表に出てまで読書なんてさ
――キルアもたまには読みなさい、あたしの本、貸したげるから
――はーい、謹んで御遠慮もうしあげまーす
――もう
あんたは少し頬を膨らましてそう言った。でも、俺がへらっと笑うとそれにつられて破顔する。あんたはよく、誰かが笑うとつられて笑うよな。ま、そういうとこ嫌いじゃないよ。てか、どっちかというとあんたの良いとこだよ、それ。突然俺は持ってたレモンティーの缶のことを思い出して、プルタブをぷしゅっと起こした。あんたは隣で、薄緑の本のページを一枚めくる。
――飲む?
汗をかきはじめたレモンティーの缶を差し出しながら言うと、あんたはありがとうとそれを受け取った。そりゃあ飲んでくれなきゃ困るよ。あんたのためにわざわざ表の自販機まで買いに行って、そんで持ってきたんだからさ。こう見えても、結構尽くす男でしょ、俺って。
空を見上げたら、そりゃあ腹が立つぐらいに澄み渡った青空だった。雲一つないって、こういうことを言うんだ。白っぽく見える青空はあんまり綺麗だと思わないけれど、今日のは全然違う。例えば飛行機に乗っている時に雲の上から見るそれのように、本当に息を飲むくらいの空色だった。あんたが外に出て読書をしたくなった気持ちもちょっと判るよ。
――良い天気だなー
思わず呟いた。
――珍しいね、キルアがしみじみ空を見上げるなんて
――そりゃあ俺だって感傷に浸ったりするよ、たまには
――へえ、そんならしくないこと言って、雨とか降らさないでよね
彼女は冗談めかして笑ったけれど、満更笑い事でもないかもしれないと思った。何せ俺って雨男だし。



それから俺たちは、お互い喋らないままただそこに座っていて、ビルの下を走っていく車のエンジン音が遠くに聞こえるのと時折あんたが本をめくるのと、風が揺れてひゅうっと鳴くのと、そういう世界に閉じ込められたみたいにじっとしていた。俺は彼女のとなりに寝転んで、そっと目を閉じてみる。視界が失われたからか今この世界を司る音が余計おおきく聞こえるような気がした。五感のうちどれか一つを無くすと、他の感覚が発達するとか聞くけど、それもきっと嘘じゃないと思う。目を閉じただけで、頬を滑る風の温度がはっきりとわかるようになった。それが心なしか冷たくなってきたように感じて、俺は寝転がったままそっと目を開いた。
――あ
寝転んでやっと見えるようになった方向、つまり座っていたときには背中を向けていた方に、ねずみ色の雲が風にのってゆらゆらとこっちへ向かってきているのが見えた。彼女の洋服の袖を、くいくいと引っ張る。
――なあに?
――後ろ、見て
俺の言葉で彼女は振りかえる。それから、俺と同じような声色で、あ、と漏らした。さっきは冗談めかして雨とか降らさないでよ、と言っていたあんたの言葉が急にリアルになってしまって、俺は少し苦笑いをした。
――降るかな
――んー、判んないけど、あれって雨雲の色だ
――あたしもそう思った
彼女はぱたんと本を閉じる。


あーもう、キルアが感傷に浸ったりするからだー
わ、何、俺のせい?残念ながら俺には天気を操る能力はありません
だって柄でもなく青空に見惚れたりするから
何ソレ、そんな迷信で人のせいにするなんて、ガキっぽー
ガキのキルアに言われたくありません

そうしている間にもずんずんこっちへ向かってくる厚ぼったい雲を眺めながら、俺とあんたはいつものとおり馬鹿みたいな言葉ばかりを交し合う。少し雨の匂いが近づいてきたような気がした。きっと、もう暫くしてこの頭上の青い空も灰色に染まってしまったころ、耐えきれなくなった雲が雨を降らすんだろう。

春の夜の夢の如し、だね
なにが?
綺麗なものは儚くて短いっていう例えだよ
ふーん、変なの
なにが?
例えっつっても、春の夢の儚さなんて知らねーもん、俺
はあ?
春に夢なんか見たことねーし
だから、ただの例えなの、それは
基準がわかんなきゃ例えようがないじゃん
わーもう何よ、屁理屈ばっかりこねて、すごい腹立つ
素直じゃないなあ、俺のこと好きなのに
関係ない!

ふいっとそっぽを向いてしまったあんたを見て、俺は思わず喉の奥でくくっと笑った。あんたのそういうとこ、俺は案外気に入ってるんだけどね。


――もう行く
あんたはそっぽを向いたまま給水塔の上からぴょんと飛び降りて、ひとりでずんずん扉の方へ歩いていってしまった。俺も急いで身体を起こすと、その後を追う。待てよ、と呼びかけながら。あんたの背中を追うのは、好きじゃない。その背中を見るたびにもやもやした感じが襲ってくるし、正体の判らない苛々が募る。すぐに追いついて、本を持ったあんたの手首をぐいっと掴み、こちらを振り向かせた。俺は思ってたより強い力で手首を握ってたらしくて、あんたは少し驚いたような顔で俺を見詰めていた。
――なに、怖い顔して
――ひとりで行くなっつってんの
自分でも気付いたけれど、口を突いて出たのはすげー情けない声だった。何故って、理由は判ってる。あんたの背中が去ってくのを見ると、思い出すんだ。この前の春、冬が行ってしまった後にしては、少し肌寒い夜。
――春の夜に夢を見たことないなんてさ、嘘だよ
――は?
――本当はあんたの夢、見たんだ、あんたがどっか行く夢
俺に何の言葉も残さずに、あんたが暗い道を歩いていく夢だった。俺の足は根っこが生えたみたいに動かなくて、声も出なくて、ただその背中を見送るだけだったんだ。だから、あんたの背中を見るのは嫌いだよ。春の夜が儚いなんて思うのは嫌いだよ。
――だから、ひとりで行くなっつってんだよ
本当に小さな声で、まるで独り言みたいだったと思うけど、それはちゃんとあんたの耳に届いていたらしかった。いつもどおりに棘のない笑顔がふっと広がって、手首を掴んでいた俺の手をぎゅっと握った。
――行かないよ


なんか女々しくて死ぬほど癪だけど、俺はきっとあんたのことがすげー好きなんだよ。自分で思ってるより、多分、もっと。あんたが俺のこと好きだってことも知ってるよ。勝手な思い込みなんかじゃなく、多分、ちゃんと。だからさ、どっちかが背中見せて歩いてくんじゃなくて、ちゃんと、並んで歩いてみない?案外悪くないと思うんだよね、そういうのって、さ。