暗い微睡みから抜け出すほんの一刹那、すぐ傍から空気を媒体として伝わってきた熱が、思考の海に沈んだ記憶を呼び戻した。包帯の下に隠された素顔を焼き続ける業火の衰えぬ熱。隣に立つだけで伝わってきた忘れ得ぬ温度に、それは、少し似ていた。熱さと共に刻まれた、ただひとつの真実。
夢とも呼べぬほどの短い幻想。
意識は急速に微睡みの底から引き摺り出されそれは覚醒へと繋がってゆく。無意識のうちに眼を開き、ゆっくりと戻った視界に映ったのは、既に見慣れた、狭いが美しい植物で彩られた中庭と鴇色の着物だった。

――おはよう

まだ完全に目覚めてはいない脳でも、状況を把握するのにそう多くの時間は必要でない。今朝宗次郎が起床した時から彼女は家の何処にもおらず、また気紛れで何処かふらふらと歩いているのだろうと思い、折角天気が良いので縁側でひとり読書をしていたのだ。そうしたら、この穏やかな陽気のお陰でうつらうつらと眠って仕舞ったらしい。読み放しで開かれた本が風に煽られてぱらぱらと頁を翻している。眠る前に、枝折を挟むべきだった。
――珍しく、良く眠ってたね
――そうかな
彼女の笑みにつられるように、宗次郎も屈託のない笑顔を見せた。彼女の前には古い七輪がひとつ置かれていて、既に美味しそうな匂いをさせていた。白い煙がふわふわと昇って、彼女は片手に持った団扇で煙を追い遣るように扇ぐ。成る程、目覚めるほんの一刹那前に感じた熱とは、この七輪が原因だったのだ。それを感じた時何か夢を見たような気がするが、覚醒した拍子に忘れてしまった。それよりも、この美味そうな匂いは。
――筍、ですか
――うん、それも朝掘りの
彼女の言葉を聞いてやっと宗次郎は今朝から彼女の姿が見当たらなかったことに合点がいった。恐らくは早い時間から、近くの孟宗竹の林にこれを掘りに行っていたのだろう。(あの竹林が誰の私有地かは知らないが、ほんの少し、筍を拝借するくらいならばこの辺りの地域では黙認されているようだ。)
――もうすぐみたい、鰹節と醤油、台所にあるのを持ってきてくれない?
――はいはい
まったく、彼女は人遣いの荒いひとだ。立ち上がり、一度大きく伸びをして縮こまった身体を元に戻した後、台所にきちんと準備されていた鰹節と醤油を持ってまた縁側へ戻る。一度台所へ移動して戻ってきたからこそ判ったが、縁側一帯は筍の焼ける新鮮な香ばしい匂いで溢れていた。
――ありがとう、宗次郎
――どういたしまして
持ってきた醤油と鰹節を、縁側の淵に置いた。見上げた空は澄み切ったように青く、そこには雲のかけら一つさえ見付けることは出来ない。そしてその空をつがいの雲雀がじゃれあうようにさえずりながら横切って行った。春がきたのだなあ、と思う。四季の移り変わり、そしてその営みとは、常に律儀で何者にも変える事は出来ない確かな真実である。このところ暖かくなってきたと思っていたら、彼女が育てている庭の花が一斉に咲き出した。植物達のなんと正直なことか。
――今、丁度、筍が美味しい頃だろうと思ってね
七輪の網の上に幾つか乗った、小ぶりの筍を嬉しそうに見詰めながら彼女が言う。
――今朝、突然思い付いて掘りに出たのよ
――大抵そんな事だと思ってました
――お刺身にするかどうか迷ったんだけれど、宗次郎はきっと、炭火であぶった方が好きかと思って
――当たりです、やっぱり僕の事、よく判ってますね
――そりゃあ勿論よ、確か納屋に七輪があっただろうと思ってね、引っ張り出してきたの
長い菜箸で筍の具合を確かめながら、彼女は宗次郎に笑む。このひとの笑顔はいつもどこか暖かで、包み込むような柔らかさを持っている。実を言えば彼女の過去など殆ど知らないが、宗次郎と正反対の道を歩いてきたのだろうとほぼ確信的に思うことが出来た。宗次郎を掴んで離さない彼女を司るすべては、返り血の無機質な冷たさを知らない人間のそれであったからだ。
ゆっくり目を閉じると、瞼の裏側がまるで果てない漆黒のように映る。遠い昔のようでまだ近い過去のような気がするいつか、漠然と真実や正しさを求めていた頃を思う。あの頃に比べ、自分は少しずつではあるが、時を経て確かに変化しつつある。静かな風景の中、雲雀のさえずりの向こう側、世界の声に耳を澄ませば、真実は各人によってひとつではないと告げているように聞こえた。そして今、自分自身の真実は、例えばたった一枚の薄い布を隔てた向こうにあるような気がしている。手を伸ばしたなら、あと少しで届きそうな。

――宗次郎っ
声がすると同時にぎゅっと頬を抓られた鈍い痛みを感じて、呆気なく瞼の裏に作られた暗闇から抜け出し、宗次郎の目は光を取り戻した。いつのまにか目の前まで迫っていた彼女は、鰹節と醤油で見た目にも美味しそうに味付けされた筍の乗った皿を持っている。どうやら宗次郎の知らないうちに焼けてしまったらしい。
――もうすぐだって言ったでしょ、宗次郎、今日は良く眠るね
もしかして疲れてるの、と問いながら宗次郎に皿をひとつ手渡し、彼女はもう一つ同じように筍が盛られた皿を手に、隣に腰掛けた。青い空をまた雲雀が横切って行って、今度は彼女も筍に気を取られることなく空を見上げ雲雀が飛び去ってゆく先を見詰めていた。そこには、ただただ青い空が続くだけ。いずれ雲雀の褐色の姿が見えなくなってもその後には確かに鮮やかな空色が残るのだ。
宗次郎はそっと、自らの右手に視線を落とした。



――この熱を、忘れる事はできませんけど



僕の真実は、もう、すぐ傍にあるのかもしれません





――ん、今、なんて?
――いえ別に、何でも
自然と溢れてきた微笑みに、今日の宗次郎って何か変よ、と笑う彼女は穏やかな空のようだと思った。
雲雀の声がする。筍の香ばしい香りが漂う。心地良い風が吹く。
――ほら、宗次郎、冷めないうちに
――そうですね、せっかくの筍だし、美味しく頂かないと
二人揃って手を合わせ、いただきます、と言う。
彼女が今朝早起きをして掘ってきた小さな筍は、それと思うだけで宗次郎にとって何よりの贅沢になるのだ。

春の空は、果てることなく広がってゆく。