太陽はもうすっかり西の山へ顔を隠し、空にはぽっかりと上弦の月が銀色に光っている。存外に遅くなってしまった帰り道、上り坂をゆくと両脇の草むらでは夏の虫たちが声高らかに合唱を始めていた。それにあわせるような、ちりんちりんと涼しそうな音色は隣にいる愛しい人の手元から響いてくる。
――やっぱり買って良かったね
彼女は手にぶら下げた風鈴を目の高さまで持ち上げ、それを見つめてにこり笑う。
――良い音ですね
――ねえ
宗次郎とふたり、顔を合わせて少し笑い、また緩やかな山道の家路をゆく。じりじりとした暑さの昼間とは違い、太陽が落ちるだけでこうも涼しくなるものか。宗次郎はずしりと重い西瓜の包みをそっと持ちなおした。
買い出しのために久々に訪れた町の市場は活気に満ちていて、夏らしく、たくさんの鮮やかな野菜やら何やらで溢れていた。彼女の目を一際輝かせたのは風鈴屋で、数え切れんばかりの風鈴が風が吹くたびに一斉に鳴り響くので、涼しげだと言う前にひどく騒がしかったのだが、彼女は少しも気にならない様子だった。なんとも楽しそうな様子で、数ある中から彼女は大好きな菖蒲の模様が入ったやつを選んだ。帰ったらすぐに軒下につるし、その音を聴きながら西瓜を食べるのだと張りきっている。
夏の夜とは、不思議と気分が浮き立つような気がする。この家路も例外ではなく、彼女の足取りも、そして宗次郎自身も、心なしか浮き立っているように感じた。


――あ、宗次郎

夏の夕に良く似合う彼女の澄んだ声が響いて、宗次郎は声のほうへ視線を移動した。そうしたら、彼女は驚いたような嬉しいような顔で前方を指差していて、それに従って先を辿った。
――あ
宗次郎も、思わず小さな声を漏らした。
狭い山道を横切るようにして、幾つかの小さな光がふわりふわりと漂っている。
――ほたる
感動に満ちた、という表現が似合うような彼女の声が響く。風雅な夕刻に此れ以上ないほど良く似合うその淡く儚い、然し確かに存在するその光は、ふたりの目を暫し釘付けにしてしまった。相変わらず両脇の草むらからはたくさんの虫の鳴く音が聞こえてくるし、蒸し暑い気候には爽やかな風が通りすぎるたびに風鈴の音も彩りを添えるのだが、ほたるを見詰めて立ち止まっているその瞬間には、そこは物音ひとつ響かない静かな風景のように感じた。
宗次郎の頭を、昔読んだ和歌集の一節が霞める。

――音もせで思ひに燃ゆる蛍こそ 鳴く虫よりもあはれなりけれ

気に入りの歌であった。初めて読んだときから、その歌に言葉にならない寂寥と風雅を覚えていたので。小さく呟いたら、それを読んだ頃の感情がそのまま波うつように押し寄せてくるのを感じた。

――良い歌だね
――好きなんです
淡い光がゆらゆらと揺れる、ほの暗い山道に目を細める。
――でも、ほたるは鳴けなくて幸せよ
手に提げた風鈴を持ち上げ揺らし、響く透明な音を噛み締めるように微笑みながら彼女は言った。何故、と宗次郎は問う。
――だって、もしほたるが鳴けたなら、きっとこんなに綺麗に輝けないから
あんまりに彼女らしい意見なので、宗次郎も思わず頬が笑みをかたどるのを感じた。ほたるは暫く舞ったあと、ゆらゆらと不規則に揺らめきながら背の高い草むらの方へと消えてゆく。小さな蝋燭の灯火のような輝きは、ぼうっと揺らいで、ふっと見えなくなった。
ほたるの姿が消えてしまってからも、余韻を見詰めるようにふたりは黙ってそこに立ったままで居た。いつの間にかほたるが連れて来た静寂に虫の大合唱が戻って来ていて、それはまた別の風雅な夜を彩る。


――行こっか
彼女はそっと宗次郎に手を伸ばした。然し次の瞬間、ふたりは顔を見合わせて少し笑う。宗次郎の両手は買い物の荷物でふさがっていて、繋ぐための余計な手がなかったので。
――それなら、こうしよう
彼女は思いついたように悪戯っぽく笑い、宗次郎が左手にぶらさげていた包みの片端を引っ手繰った。ふたりが包みの片端ずつを持つ形になって、間には色鮮やかな野菜が顔を覗かせる。
――さすが、名案ですね
――でしょう
また顔を見合わせて、笑った。
――さあ、早く帰らないと
――そうね
風鈴を吊るして、西瓜を食べなきゃ。彼女は至極楽しそうに笑う。
夏の夜に彩りを添える鳴き声が草むらの虫たちに与えられたもので、ゆらゆらと舞い踊る儚い輝きがほたるに与えられたもの。ならば人間に与えられた特権とはきっとその笑顔だろうと思わせるほどに、彼女の笑顔はいつでも美しい。

半分の重さになった左手の荷物に繋がれて、ふたり並んで歩く山道は夜の帳を深くしてゆく。