今朝からずっと、冴え冴えとした空気を肌で感じていたが、日が落ちる頃になってそれは更に顕著になり、空に鮮やかな茜色を連れて来た。ついこの間までは蒸し暑い中で夏の名残の寒蝉の声がしていたと思うのだが、気がつけばぱたりと静かになったものだ。時の流れとは思いのほか早く、彼女は今日、張り切った様子で十五夜だ十五夜だと騒いでいる。そうか、もう十五夜か、と、宗次郎も染まりゆく空を縁側から見上げ、少しだけ秋の感傷に浸ろうとしていた。散歩の折に取ってきたすすきを青鈍色の一輪挿しにさして飾ったら、もうそれだけで秋の匂いが家の中をすっかり満たしてしまったような気がするのだから大したものだ。巡る四季の流れの中で、これ程までに漠然とした寂寥を覚えさせる季節が他にあろうか。全く不思議な季節だ、秋と言うのは。そういえば、この国に住む人々というのは昔から、この季節の夕暮れに何とも言い表すのが難しいような寂寞を常々感じていたのだった。清少納言が枕草子で言っているのやら、三夕の歌やらがいい例ではないか。勿論、宗次郎も例外ではない。四季それぞれが持つ風雅の何よりも秋のそれに興味を惹かれるのは、長いこの国の歴史の中で擦り込まれた風土病か何かなのかもしれない。

ふと、紅い空をアキアカネが舞ってゆくのが目に止まった。空の色に溶けてしまいそうでありながら、すいすいと中空を滑るように飛んでゆく。何とも言えぬ風情だ。この蜻蛉たちといい、散歩に出掛けた時に目に止まった山道の鮮やかな彼岸花といい、秋の情景に華を添えるものは皆、何故にこうも燃えるような赤色をしているのだろうかと不思議に思う。そしてその色も、この寂寥の一つの要因になっているに違いなかった。

――宗次郎
背後から名を呼ぶ声がして、宗次郎は振り返った。大きな皿を両手で抱え台所から出てきた彼女は、にいっと笑いながら皿を机の上にことんと置いて宗次郎を手招いた。
――お団子、出来たよ
――わあ、美味しそうですね
縁側の淵から立ちあがって机の傍まで行くと、団子でいっぱいの皿を覗きこんだ。出来立ての月見団子は、白くてつやつやとしている。流石に仲秋の名月が主役であることに変わりないが、それにしても名脇役の存在というのは存外に重要なものである。
――まだ食べちゃだめなんだからね、きちんと積み上げて、お供えするんだから
――わかってますよ
へらっと笑いながら答える。それにしてもたくさん作ったものだなあ、と、彼女の横に腰掛けて大皿いっぱいに並べられた白い団子を見つめながら、口に出しさえしないがひとりで苦笑いをした。二人しか食べる者が居ないのになあ、と密かに思う。こういう行事ごとになると、彼女はいつでも妙に気合が入るらしかった。でもそうやって最大限に季節が移り変わりゆくのを祝おうとするときの彼女は何だかとても楽しそうに見えるので、よしとしようか。
――昔ね、
団子を供えるため、下から順番に丁寧に積み上げながら彼女は話し始めた。昔話をするのは珍しいので、宗次郎も黙ってその続きを待つ。
――おばあちゃんと一緒に月見団子を作ったのよ
――へえ、それは素敵だなあ
宗次郎が言うと、彼女はにこりと笑う。
――真似て作っていたのに、どうしたっておばあちゃんの団子の方がまあるいの
――それはきっと、年の功ですよ
――でも何だか悔しかったわ、食べたら、味まで違う気がするもんだから
彼女は肩を竦めて微笑んだ。つられるようにして宗次郎も笑う。そうしている間にも、ひさしの向こう側に見える空は端から順にどんどん紫色を帯びてゆき、十五夜の月がすぐそこまで来ているのを教える。早くやってしまわなくちゃ、と彼女は作業の手を早め、ひとつくらいなら、とつまみ喰いをしようとして伸ばした宗次郎の右手をぱしんと払った。
――痛、
――まだ食べちゃだめって言ったでしょう
――厳しいんだからなあ、まったく
小さく息をつきながら大袈裟に口の端を上げる。彼女はしばらく宗次郎をきっと睨んでから、また作業に戻った。どんどんと高く積みあがっていく月見団子は、成る程、見事なものだ。
――今日のはきっと、おばあちゃんのと同じ味がするよ
彼女は心持ち嬉しそうに言う。それは何を根拠に、と聞いたら、形の模倣ばかりに気を取られていたあの頃足りなかったのは心だったのだ、と、至極確信的にそう答えた。今日の団子には愛がこもっているからきっと美味しいよ、と。全く彼女らしい発想なので、宗次郎も思わずふっと笑う。

何気なく視線を縁側の淵に置いた一輪挿しのすすきへ動かすと、帰り損ねたアキアカネが一匹、ぽつんと穂にとまって羽根を休めているところだった。
君も月見ですか?
声には出さずそっと呟くと、アキアカネはそっと羽根を震わせた。まさか、本当に伝わったのだろうか。中々風雅を解した蜻蛉も居たものだなあとその蜻蛉に向かって微笑みかけると、何してるの、と怪訝そうに彼女が宗次郎を覗きこんだ。いえ、何でも。微笑みながら小さく答える。気付けば、月はいつのまにか山の向こう側から静かに顔を出し、まだ完全に藍になりきっていない低い空に、成る程、それはそれは真ん丸く浮んでいた。矢張り十五夜だ。まるで、彼女が丸めた白い月見団子のように綺麗な円を描いている。宗次郎がそれに目を奪われていたら、隣に座る彼女も同じように銀の月に目を留めているのに気付いた。
――綺麗ですね
――ね、ほんとに
思わず顔を見合わせて笑い合う。
すすきの穂に止まっていた帰り損ねのアキアカネさえ、ふたりに遠慮したのだろうか、いつのまにか家路についていた。