不思議だった。
この風景をわたしは、良く知っていた。
宗次郎とこの地を訪れ根を張るようになってから、そう長いこと経っていない筈なのに、第一、二人で散歩をする道はいつも決まっていたし、町へ買い出しに下りたりする以外に知らない道をふらふらと歩いたことはなかった筈なのに、どうも先ほどから信じられないほどの即視感がわたしを支配している。
いつもと散歩する道を変えてみようと言い出したのは宗次郎だったが、それは少し前からわたし自身いつか提案しようと思っていたことだったので彼がそう言い出した時には大賛成をした。知らない道を歩くことが昔から大好きで、幼い頃には、まだ足を踏み入れたことのない知らない場所をひとりで探検しては、まるで自分が世界の秘密を暴く探検家にでもなったような気分で、自分の生まれた小さな町を駆け回っていたものだ。
そんな幼少時代のおかげだろうか。宗次郎と並んで歩く、少し鬱蒼とし始めた山道には、ひどく懐かしい匂いがする。和らぎはじめた夕刻の日差しが木の葉の隙間から微かに差しこんで来て光の溜まり場を作っているのとか、踏みしめる湿った腐葉土の包み込むような柔らかさとか、不思議と心を落ちつけてくれるような感じ。

――何だか、前にもここへ来たことがある気がする
――あははは、いつも突然、不思議なことを言い出すんだからなあ
彼は笑って、繋いだ手に少し力を込めた。彼の掌はいつでも暖かくて、わたしはこうして彼と手を繋ぐのが好きだった。同じ温度がそこに存在するのを感じると、いつもは希薄な気さえするわたし自身だって確かなものだと不思議な確信を得ることが出来た。まるで赤ちゃんが胎児の頃の感覚のおかげで母親の温度を選別出来るように、わたしも宗次郎の確かな温度に、赤ちゃんのそれに似た感覚を覚えているのかもしれない。
――そんな気がするの、この風景はわたしが小さい頃ずっと見ていたもののような
遠くでちちちっと鳥が鳴く声を聞きながら、本当よ、と、小さく付け加えた。
――でも、もしそうなら僕は嬉しいなあ、君の思い出の中を歩いているみたいで
彼は優しく言った。何だか本当に嬉しそうに言うので、つられてわたしまで嬉しいような気がして、彼と同じ笑顔を返してしまう。



本当に、懐かしさばかりを掻き立てるその風景は、太陽が落ちてゆくのに比例して少しずつ暗くなっていったけれど、温かいものが包んでいるような雰囲気は少しも変わらなかった。もうここしばらく誰も通っていないだろう、道でないような道は、木々に縁取られるようにしてずうっと遠くまで続いているように見える。わたしも彼も、そろそろ折り返そうか、とも言わずに、ただ道なりに進んでいくだけだった。日が完全に落ちてしまってもわたしたちは灯りを持っていないというのに、悠長に散歩を続けていられるのは、この情景が醸す根拠のない安堵感をわたしも彼も感じていたからに違いなかった。
少し行くと、右手に石造りの階段があるのが見えてきた。相当風化していると見えて、一部、石が欠けたり外れたりしているところもあるが、元は立派な階段だったのだろう、時を経て人々に忘れ去られた今でも充分にその役割を果たしそうにどっしりと構えていた。見上げると結構な段数があるようで、両側からせり出す大きな木々のおかげで今まで通ってきた道と同じように薄暗かったが、登りきった先には開けた場所があるらしく、隙間からは切り取られたような空が見えていた。上にあるのは神社だろう。鳥居が見える。
わたしたちは、目配せだけでその階段を登ることを了解して、進行方向を変更するとゆっくり登りはじめた。古い階段である所為か、一段一段に結構な段差がある。
――結構きつい段ですね、大丈夫?
――もちろん
繋いだ手で何気なくわたしを支えてくれるのが嬉しくて、思わずその手に頼りながら歩を進めた。それにしても、いよいよおかしなことになってきた。この階段にも実は覚えがある気がするのだ。登った先は左に折れて、少し行くと小さな本殿が顔を覗かすはずだったと思う。何だか、夢で見たことを思い出すようなあやふやな記憶ではあったが。
繋がれた彼の手に少し引っ張ってもらいつつ、わたしはその階段を登っていった。これだけの段差と段数があるのなら、もし小さい頃に一人で登ったとしたら大変だったろうなあ、と思う。それでも過去のような夢のような記憶の中で、わたしは少しも階段を登ることを辛いと感じなかったようだ。そんなに体力がある子供ではなかったはずなのに。今でも、どちらかといえば身体が強いとは言えない方だ。矢張り、その頃も今宗次郎の手を借りているように誰かの手に助けられながら登っていったのだろうか。いいや、子供の頃知らない場所を探検する時、わたしは決まって一人だったはずだ。誰かが一緒だと、折角見つけた宝物のような風景に溶け込めなくなるので嫌だったから、一人で行くと決めていた。でも、ならば、何故?
・・・まあ、いいか。
先ほどから不思議な感覚ばかりが襲うので、そんな妙な感じには慣れっこになってしまったのか、わたしは都合よく考えるのを止めることにした。それより、ひとりで勝手に思考を巡らしている間にも、わたしたちはかなり上の方まで登ってきていたようで石段ばかりしか見えていなかった視界がすうっと広がり、砂利が敷かれた神社の入り口が見えていた。そこに見える道は左に折れていて、その先には小さくはあるが本殿が見える。ああ、やっぱり。先ほどから思っていた通りの風景に、何だか少し安心してしまった。
――やっぱりわたし、この風景、見たことがあるみたい、子供の頃に
――でも、生まれはこの辺りじゃないですよね?
――全然違うところだけど
わたしが言うと、宗次郎は不思議そうに目を丸くした。確かに不思議でおかしな話に違いなかったけれど、わたしはわたしの感覚を疑わなかった。ここは幼い頃育った町とは違うし、そこから近くもない。わたしが来ている筈もない土地だ。だけれども、この風景は確かに知っている。妙に心が落ち着くこの感じ。頬を滑る古びた神社の清涼な風、木々の葉っぱが擦れる音と歩くたびについてくる砂利の音が混ざり合う絶妙な和音、喧騒から隔絶されたような凛とした空気の中で存在する自分自身と、右手から伝わる包み込むような掌の温もり。全てが懐かしく感じる。

掌の温もり。

ああ、そうだ。
宗次郎と繋いだ右手のこの温もりも、確かにわたしの記憶の中に存在して懐かしさを誘うひとつの要因になっている。わたしは宗次郎と、この場所に手を繋いで立っていた。わたしの記憶の中で。

――ねえ、宗次郎
――何ですか
――過去に、未来の記憶を見ることって、あると思う?
――それって、予知のことですか
――そうじゃなくて、過去の記憶を思い出すように、未来の記憶を見るのよ
――うーん、何だか複雑な話だなあ
――ね、ほんとに

わたしが笑ったら、彼も肩を竦めていつもの人懐こい笑みを浮かべた。ほんとに、いつも突然、不思議なことを言い出すんだからなあ、と、さっき歩いていた時と同じ言葉を繰り返しながら。
空想的で現実離れしたお伽話のようだけれども、確かにわたしは幼い頃、この景色を見ていたのだ。未来のそれとして。眠っている時に正夢みたいにして見たのだったか、それとも白昼夢のようなものだったかはもう判らない。けれども、確かにわたしは今日の光景を過去に見ていた。そこには確かに薄暗い山道があって、風化した階段と古びた神社があって、わたしの隣に宗次郎がいた。つまり、幼い頃からずっと知っていた未来の記憶が遂に現実になったということ。例えるならば、昔からずっと好きだった風景画に描かれた場所に、はじめて訪れたようなもの。そう合点したらすうっと霧が晴れたような心持ちになって、何だか妙に気分が浮き立つような気がした。そんなわたしの心内を空気が媒介して彼にも伝わったのだろうか、知らない間に浮かんでくる笑顔を隠しきれないわたしを見た彼は、至極嬉しそうな風情だった。

――せっかくだし、お参りして行きましょうか
――うん、そうね

手ぶらなので、申し訳ないけれどもお賽銭は省くことにして、わたしたちは並んで二拝二拍手をした。鈴もあるにはあるが、長い間雨風に晒されて放っておかれていたお陰で、綱が切れて短くなってしまっていたので鳴らすことはできなかった。でも、がらんがらんという鈴の音がこの丁度良い具合の静けさを壊してしまいそうだったので、綱があっても鳴らさなかったかもしれない。
あなたが見せてくれたんですか、未来のこの日を。
両手をあわせ、目を閉じながら心の中でそっと神様に問いかけたら、風がひゅうっと低く鳴る音がした。それが先ほどの問い掛けに対しての返事のように聞こえて、わたしは少し面くらいながらも神様の計らいに感謝するしかなかった。



――何て唱えたんですか
――秘密よ

帰り道の階段を降りながら、繋いだ手の懐かしい温もりを感じて、わたしたちはそうすることしか知らないみたいにやっぱり笑いあったままでいた。