粒が細かく静かな雨が、今朝から休まず降り続いている。先日、庭仕事をしていた際に、花壇に植えられた紫陽花のつぼみがふんわりと膨らみ始めているのを見かけたが、矢張りもう季節は梅雨に足を踏み入れたのだろうか。この間から、はっきりとしない天気がしばらく続いている。
大抵、いつも縁側は開け放ったままにしてあるのだけれども、雨が時化てきてわやなので雨の日はぴしゃりと戸を閉ざしてあった。無論、本日も然り。しかしそうすると、風も通らない上に冴えない天気のお陰も重なって光が不充分なので、家の中はどうも辛気臭くなってよろしくない。
わたしは、沸かした湯を茶の葉を入れた急須に注いで、そうっとそれを揺らした。ふたつ並べて用意した対の湯のみは、少し前に二人で町へ下りて行った際に買ったものだ。そんなに頻繁に町へ下りてゆく訳でもないのだけれども、その日は偶然に、町で瀬戸物市をやっていた。食器は、食材を殺してまでも己を主張しないようにと、出来るだけ簡素なものを選んで揃えてあったのだけれども、色とりどりの瀬戸物を見るのはそれだけで目に楽しかった。ぶらぶらと二人並んで見て歩いていたら、その多くの瀬戸物の中に、一対の湯のみを見つけた。淡い水彩のような薄桃色と千草色のそれは、並べて置くとまるで桜の色合いそのもので、わたしの目は一瞬で奪われたのだった。思えば、わたしが宗次郎に何かを買って欲しいと強請ったのは、この時が初めてだったと思う。
それ以来、二人でお茶を飲むときには必ずこの湯のみを使うようになった。何度見ても、その謙虚な美しさには溜め息が零れてしまう。勿論、宗次郎もこれを気に入ってくれている。
わたしは淹れたばかりのお茶を二つ並べて盆の上に置き、そっと居間の戸をひいた。宗次郎は部屋の中で本に目を落とし、しとしとと最適の音量で降り続く雨の音を伴奏に読書を楽しんでいると見える。それにしても暗いので、昼間ではあるが脇にあった洋燈に火をいれた。表から刺し込む僅かな光と、洋燈の周りにふわりと灯った橙の光とが混ざり合って不思議な風情を醸している。
――暗いでしょう?
――ああ、ありがとう、さすが、気が利くなあ
宗次郎が向かっている机に洋燈を置いてやると、彼はにこりと微笑んだ。ついでにお茶も盆から下ろす。白い湯気がふわりと立ち上った。お茶の香ばしくて良い匂いが鼻腔を満たす。
――雨、長いですね
――ほんとにねえ
縁側の硝子戸の向こうに見える雨の筋を見詰めながら、わたしはお茶を啜る。温かい感じが喉の奥を通って落ちていって何だか心地良い。
――これから梅雨だものね、毎日こうなるよ
――散歩も、今まで通り、毎日は行けないかもしれませんね
ああ、そうだった。わたしたちは夕刻、ある時間帯になるとどちらからともなく連れ立って散歩に出掛けることが日課になっていたのだけれど、それも、あまり雨に降られてしまっては。
――雨の日の散歩も、素敵だけど
――そうですね、でも、雨に濡れるのはあんまり好きじゃないからなあ
――あら、そうなの?
初耳だったので少し意外に思う。宗次郎の方を向いたら、曖昧に笑みながらお茶を飲んでいた。顔の左半分だけが洋燈の光に当たって、橙に色付いて見える。普段から余り何事も気にしないみたいににこにこしているのだけれど、偶に見せるこういう表情が、わたしは好きだ。一呼吸置いて湯のみを下ろしてから、切り出す。
――わたしはね、雨の匂いが好き
雨がぽつんぽつんと降り始めたときの、何とも比喩しようのない湿気を含んだ空気や土や草の湿った匂い。何だか物悲しくて、どうも心惹かれるものがある。
――雨の匂いかあ、うん、それは、何となくわかる気がします
宗次郎は、うんうんと頷きながら呟いた。わたしは頷く彼の横顔を見ながら、またお茶を喉に流し込む。お茶の葉を先日から変えてみたのだけれど、どうやら成功だったみたいだ。なんて美味しいお茶。
――あ
宗次郎は、硝子戸の向こうで何かに気付いたように視線を止めた。どうしたの、と問いながら、わたしも彼の視線を辿ってみる。
――雨が
宗次郎はぽつんと声を漏らし、わたしも彼が指差す見て、あ、と思わず呟いた。空から糸を垂れるように降っていた静かな雨の筋が、いつの間にか見えなくなっている。わたしが立ちあがったのと宗次郎が立ちあがったのはほぼ同時で、向かった先も同じ、縁側の硝子戸の前だった。向こう側を覗くみたいに硝子に頬をくっつけたら、すっかり晴れた、とまでは行かないものの、どうやら雨は上がっているらしく、庭に出来た水溜りに波紋は描かれていなかった。分厚い雲に出来た少しの隙間から差し込む太陽の光は、何だかとても神々しく荘厳に見えた。
――雨、あがったねえ
――あがりましたね
確かめるように小さく呟いて、ふと、庭に植わっている紫陽花に目を落とした。
――あ、見て
そして今度は、わたしが驚きの声をあげる番。
――咲いてるわ
――本当だ、綺麗ですね
確かに先日まではつぼみだったはずの紫陽花は、薄桃色の花びらを称えてちらほらと咲き始めていた。その色はまるで、わたしの湯のみの色にそっくりだ。あの色味は桜のものみたいだと思っていたけれど、やっぱり紫陽花に喩えるのも悪くない。まだ完全に咲いてしまった訳ではないけれど、この様子だと満開になって雪洞のようになるのもそんなに先の話ではあるまい。
――こういうのを見ると
紫陽花を眺めながら、宗次郎が口を開く。
――梅雨も、そう悪くないって気がしますね
――そうね
二人して硝子にぴったりと頬を寄せながら呟いて笑う。薄桃色の花びらにぽつんと乗った水滴に、雲間から差す光がきらりと輝いていた。