今日、ぶらぶらと山道を散歩している時に、若い女の人を助けた。それはそれは苦しそうに、道にうずくまっていたので声をかけたら、突然苦しくなったと言うので、町で買ってきた薬を少し分けてやったのだ。しばらく背中をさすっていたら、そのひとは、大分楽になったと言い、短い礼の言葉と共に山の奥のほうへ歩いて行ったのだけど。



――化かされたのよ、宗次郎

丁度、洗濯物を干し終えて、からっぽになったかごを抱えたまま中庭から上がってきた彼女は、僕が今朝の出来事を話すと苦笑いしながらそう言った。

――悪戯にしては、たちの悪くない悪戯だけど、多分、間違いないわ
――そうかなあ

僕は真っ青に澄み渡った空を見上げながらつぶやく。確かにこの山にはキツネやたぬきの類が沢山居るみたいだったし、散歩中にその姿を見かけることだって何度もあったが、化かされる、なんて事は一度もなかった。ああ、でも確かに、あのような若い女の人がこんな山奥で何をしているんだろう、と、初めうずくまっている姿を見て思ったのだった。手に籐のかごを持っていたので、山菜取りに来たのかなあという事にしておいたんだけれど。あんなに苦しんでいたのに、楽になったからってまた山奥へ入っていくのも、そう言われてみれば、少しおかしいのかもしれない。

――良かったねえ、何もされなくて

彼女は僕の隣に腰を下ろして、溜め息混じりに言った。本当に安心した、という風だったから、どうしたんだろうと思ったら、なるほど、そう言えば彼女は以前、曾祖母がキツネに化かされたときの話をしてくれたのだった。そのことを思い出したのだろう。

――でも、そんな悪そうな感じではなかったんですけど

彼女の曾祖母が化かされたときには、それもまた、山へ山菜を取りに行った時のことらしいが、いつもの帰り道を歩いていたら、いつまで歩いても周りの風景が変わらず、まるでぐるぐると同じ所を巡っているように、終わりのない道を延々と歩き続けさせられたらしい。途中で彼女の曾祖母は、化かされているのだと気付き、大声で叫んだり走ったりして、気付いたら、いつのまにか自分の住む町へ帰ってきていたそうだ。しかし、本当にずっと帰れないのではないだろうかと大変怖い思いをしたのだと聞いた。彼女は幼い頃に聞かされたその曾祖母の経験に恐れをなし、しばらく、キツネやたぬきが恐ろしくて仕方なかったらしい。今では、散歩中にその姿を見かけても曖昧に微笑んでいるだけだけれど。それでもやっぱり、まだその記憶が消えないのだろう。

――きっと秋だから、寂しくて出てきたのね、この辺は人も少ないし

僕は少し腑に落ちない部分もあったけれど(何せ、化かしている、という感じではなかった。そのひとの尋常で無い苦しみ方は)、彼女はそれで自分なりに納得したようですっと立ち上がると台所のほうへ消えてしまった。昼食の準備をするのだろう。
僕はひとり、縁側の向こう側に広がる高い秋空をじっと見上げていた。秋は深い。紅葉し始めた葉が見る見る散ってゆくのは寂しいが、葉が降り積もって赤い絨毯を敷いたようになった山道は信じられないほど美しく僕らを迎え、少し肌寒くなってきたこの涼しさがまた心地良く、散歩にはいちばん適した気候なのではないか、と思う。こんな季節に山奥で化かされた、なんて、少し風雅な気がしてそれはそれで良いなあ、という気にもなる。秋風がさやさやと草木を揺らして部屋の中へ流れてくる。ああ、いい天気だ。もう一度散歩へ出掛けて、あの山奥へ行ってみたなら、本当のところが判るだろうか。いいや、やっぱり、判らないままで良いのかもしれない。
台所の方から良い匂いがしてきた、秋の食材を使った美味しい昼食がもうすぐ運ばれてくるだろう。今日の昼食は何だろうなあ。












とんとん。

玄関の戸を叩く音がしたので、僕は視線だけでそちらを向いた。その音は彼女の方にも聞こえていたらしく、台所からひょっこりと顔を出し、僕と目を見合わせてから音のした方に視線を向ける。

――来客ですかね?
――まさかあ

この辺は僕らのほかに誰も住んでいないし、ここからいちばん近所の家といえばそう、歩いて二十分ほど山を下ったところにある老夫婦の家だ。そこの老夫婦とは面識があって、よく話をすることもあったけれど、此方の家に訪れたことは一度だってなかった。ここに腰を落ちつけてから暫く経つけれど、来客なんて初めてだ。

――でも、戸を叩く音がしましたよ
――そうだよねえ

出てみる?と彼女が首を傾げたので目だけで肯定の合図をし、立ち上がると、彼女と並んで玄関へ向かった。戸口に立って、そっと耳を澄ましてみるが、どう聞いてもしんとしている。もう一度目を見合わせたら、彼女は不思議そうな顔をして肩をすくませた。
僕は、そっと戸に手を伸ばして、ゆっくりと引いて開けてみた。

やっぱり、しんとしている。


――誰もいない?
――じゃあ、さっきの音は何だったんでしょう?
――さあねえ

不思議なことだ。戸を叩く音が聞こえたことは確かなのに。誰も居ないとしたら、あの音は何だったというのだろう。誰か居たのだとしたら、一体何処へ消えたのだろう。

――あ、ねえ、宗次郎っ

彼女が驚いたように僕の名を呼んだ。どうしたんですか、と問いながら彼女を見ると、何やら下を向いている。ので、僕も彼女と同じ方を見た。

――あ


僕も思わず呟いた。そこには、小さい籐のかごいっぱいに、鮮やかな橙色の柿の実が盛られていた。その上には、可愛らしい小さな白い花が一枝、置かれている。このかごには見覚えがあった。それは、確か。

――これ、今朝助けた人が持っていたかごですよ
――そうなの?

彼女はそっとしゃがみ込んでそのかごを手に取った。両手で抱えなければ零れ落ちてしまうくらい一杯に盛られた柿は、良く熟れて美味しそうな甘い匂いでそこら中を満たしている。彼女は驚いた顔をしたまま、何度か美しい橙の柿の実を手に取ったり撫でたりした。

――彼女なりのお礼なのかな
――本当に苦しんでいたんですね、やっぱり
――律儀なキツネも居たもんだねえ

そう言って微笑む彼女の、キツネに対する偏見も少し薄らいだだろうか。

――良いことしたみたいだね、宗次郎

僕のいちばん好きな笑顔で笑う彼女は、柿の実の上に置かれた白い花をそっと手に取って、愛でるようにそっと花に触れた。

――可愛らしい花、白孔雀だね

飾らなきゃなあと呟いた彼女は、玄関に置いてあったからっぽの一輪挿しの花瓶を手に、台所の方へ急ぎ行ってしまった。なるほど、白孔雀と言うのかあの愛らしい花は。誰が名付けたのかは知らないけれど、確かにその花びらは孔雀の尻尾の羽のようだった。


居間に戻ると、もう机の上にはさきほどの白孔雀が小さな花瓶に飾られていてとても可愛らしかった。キツネの恩返し、とまで言えば言い過ぎかもしれないけれど、兎に角、何と風雅なキツネだろう。

――宗次郎、お昼ご飯にしましょう、手伝ってくれる?
――はい
――ご飯を食べたら、キツネに貰った柿をむこうね





僕は何だか、とても暖かな気持ちになった。