ここ最近では庭はほとんど雪に埋もれっきりで、この下に隠れた土は一体どんな色だったのであろうなあと疑問に思うほどだ。今日もいつものように、表は一面の雪景色である。宗次郎は、障子一枚で隔てられたその向こう側の寒さに思いを馳せながら火鉢の傍に陣取って、濃く出した暖かいお茶を啜っていたのだけれども、毎日そんなことでは身体が鈍るから、という彼女の言葉で、渋々ながら表へ連れ出されたのであった。出掛ける前に彼女は、暖かい格好をしてね、と念を押したけれど、どんな格好をしたって寒いものは寒い。ここ最近では少し暖かくなってきたのかなあという気もしていたけれど、気候は気紛れにまた寒さを増した。何と言おうと如月は如月である。

宗次郎は、羽織った上着の襟を寄せながら、無意識のうちに肩に力が入るのを感じた。隣を歩く彼女は鼻を赤くしながら、宗次郎が見詰めているのに気がつくとそっと微笑んで、寒いねと言う。だから言ったのに、と、声には出さずに呟いて、賢明にも家から一歩も出ず、恐らく今も眠っているのであろう琥珀のことを思った。彼も他の猫の例に漏れず、いつでも寒さをしのぐように小さな身体をまあるくしている。
見上げた空は鉛のような鈍い灰色をしていて、今は雪が降ってはいないけれども、いつ降り出してもおかしくはない天気だった。けれど、空はあんなに暗いというのに、雲の向こうから届くかすかな光をいっぱいに受けた雪がそれを反射して、その天気より景色はいくらか眩しく見えるみたいだ。寒い山道には二人のほかに勿論誰も居らず、白く雪の降り積もった道には人間のものはおろか、動物の足跡ひとつさえついてはいない。その上を、彼女は、雪の音を楽しむように一歩一歩と踏みしめて歩いた。痛いほどの静けさの中でその音はやけに大きく聞こえ、宗次郎は、この世に自分たち二人だけしか存在しないような錯覚を覚える。
風もなく音もしない。
そんな世界の中で存在するのは白い雪の上を歩くふたつの影だけ。


――早く春がこないかなあ
――そうですね
中空を見上げ呟くような彼女の声に、宗次郎も小さな声で返事をした。声はすぐに白く濁って、空気に溶けるようにふわりと消える。葉を失った木に降り積もった雪の花や、山道に敷かれた質のよい絨毯のようなやわらかい雪。全てが真っ白で、一体何が何なのか分からなくなりそうなくらいだ。宗次郎は彼女の横顔を盗み見、なんだかその白い肌もこの雪の中に溶けてゆきそうだと、ふと思う。そして、そんな考えが頭を過った自分がおかしくて、ちいさく笑った。
――宗次郎、何笑ってるの
彼女はいぶかしげに眉を寄せ、宗次郎に問う。
――いいえ、何でも
宗次郎は首を振る。
――ただ、ちょっと火鉢が恋しくなって
宗次郎が言うと彼女も笑った。相変わらず鼻の頭は寒さで赤くなって、放っておいたら凍り付きそうになる指をかばうように胸の前でしっかりと両手を組んでいる。宗次郎はもういちど襟を手繰り寄せ、それから冷え切ってしまった彼女の手を取った。そっと握ると、彼女も握り返してくれる。
――宗次郎、あったかいね
彼女は小さな声で呟き、宗次郎に向かって微笑む。きっと宗次郎の手も彼女と同じくらい冷たくなっているはずなのに、こうしていると何故か暖かい気がするのはどうしてだろう。答えは知らないし出す必要もないけれど、それはとても、とても尊いことであると思えた。



――あ、降ってきちゃった
彼女の声で空を見上げると、白くて小さな結晶がちらちらと舞い落ちてくるところであった。今まで何とか持ちこたえていたけれど、やはり降り出したらしい。
――そろそろ戻りますか、風邪をひくといけないし
――うん
雪の粒がてのひらに落ちてくるのを楽しそうに眺めていた彼女は、心なしか名残惜しそうだったけれど、宗次郎は彼女の手を引いてもと来た道を戻り始めた。雪は強さを増すでもなく、はらりはらりと柔らかく降り注いでくる。そっと彼女の方を見ると、黒く美しい髪にくっついた雪の結晶は細やかに装飾され、きらりと光って綺麗だった。

空から舞い散る雪の中、二人で住む家までの道を冷えた手を取り合って歩く。どんなに寒い日でも、ふたりこうしていれば、心の底に冷めない温もりを感じていられるような気がするよ。
君に出会って初めて感じた、不思議な気持ち。

――やっぱり、まだ少し、春には早いみたいですね
降ってくる雪を見詰めながら宗次郎が言う。手を繋いだ彼女からの返事は勿論肯定であろうとほぼ無意識に断定していたけれど、返って来るはずの返事が中々聞こえなくて宗次郎はちらりと彼女の方を見た。
――そうでもないよ
――え?
――ほら、見て
彼女が指差したのは道の脇に生えている小さな草花。何の変哲もない気がしたけれど、よくよく見れば、頭を俯けるようにした茎の先に、小さな小さな白いつぼみがついている。宗次郎は見たことのない花だけれど、彼女の横顔は驚きと嬉しさで何だか少し紅潮しているように見えた。
――可愛いでしょ、雪待草って言うの、春を告げる花
――へえ
彼女はその花の傍にそっとしゃがみ込むと、葉の上に積った雪をそっと拭い、つぼみを撫でる。その仕草は美しく可憐で、その花について知らなかった宗次郎にも、春の気配を運んでくるみたいだった。
――春はきっと、もうそこまで来てるのよ
――そうですね

僕は彼女の隣に同じようにしゃがみ込み、顔を見合わせて微笑みあう。例えば、来年の今頃、雪が降る寒い日に、僕はきっと君のそばに居て、今日みたいに春の気配を感じて笑うだろう。
春が来たなら君の髪に花を飾って、夏になればふたり並んで天の川を眺めよう。秋が来たら僕が君のさびしさを埋めるから、次の冬が来たらどうか君は僕に寄り添っていて。そしてそんな季節がずっと続いてゆくんだ。

この世に存在する全てのものが不確かでも、それだけは変わらない真実。





あの日欲しがったものならここにある。
君がいる日々。君を想う気持ち。
共に明日へ向かう喜びは、紛れもない真実だから。